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静岡とお茶と清水港の歴史 その十 (清水湊の変遷 オマケは巴川を渡るJR、静鉄)

2021-06-14 11:52:31 | 静岡の歴史、お茶、廃線

こんにちは  2021年6月14日の月曜日です。

撮影は3年前かな?春、巴川沿いの巴町公園から西を向く。夕方は思い切り逆光・・

南を向けば静鉄が撮影できます。   下の赤丸が撮影場所

(フェルケール博物館展示)  さて、清水湊の歴史

1682年(家康没から66年後)、江戸時代初期の清水湊は対岸の向島(印から下の地)はまだ小さく

ほぼ湾に面していました。

(フェルケール博物館展示)

嘉永7年(1854) (清水といえば清水次郎長 当時34歳) 向島は堆積で広くなっております。

1855年  安政地震後、隆起により向島は広くなり

巴川は細くなりました(ホント細くなりすぎてしまい 分かりづらい)。   変遷にただ驚くばかりです。

河口付近は干潟となり、湊の機能が失われると、外洋に面した「波止場」の建設が急務となりました。

(フェルケール博物館展示)

明治8年(1875) 中央青色部分「船繋場」と記された部分が

波止場用地となった。

(フェルケール博物館展示 明治20年)

鈴木与平や柴田勇吉ら廻船問屋主人たちは明治11年(1878)に「波止場・博運会社」を設立し

翌年に波止場を完成させました。

明治11年(1878年) 清水波止場を築造  沼津-江尻間で汽船海運業開始

明治12年(1879年) 港橋を架設 (写真は現在  もう一つ橋があるようだが富士見橋かな)

現在の富士見橋

明治22年(1889年) 東海道線(東京-静岡)開通(上部の黒線)  江尻駅設置

東海道線開通により清水港の移出入が激減してしまいました     つづく。

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