これもまた小さな芝居だ。これが今週3本目の芝居だが、3本とも同じように小さな作品。ようやく落ち着きを取り戻しつつあるとはいえまだまだコロナ禍の今、演劇公演はどうしてもこうなるのかもしれない。だが、それは寂しいことではない。反対に今までとは少し違う贅沢がそこにはある。これは座長であり作、演出を手掛けた久保田浩が、自分が今やりたかったことをやりたいままにやりきった、そんな作品になっている(のではないか、たぶん)。
小さな劇場で、少人数での会話劇。3話からなるオムニバス・スタイル。いずれのエピソードも帰郷をテーマにした2人芝居だ。ひとつだけ(『キス期すキス帰す』)登場人物は3人だが、3人芝居ではなく魔瑠演じる老女優が2人のいずれかと向き合うというスタイルなのでこれもある種のふたり芝居だろう。
最小人数の2人。お互いがお互いと向き合うことで成り立つ物語。そこから始まり終わる閉じられた世界。だが、そこに描かれるものは大きな芝居では伝えられない豊かな時間だ。それがしっかりと描かれることとなる。壮大なドラマではなく、ささやかな営み。でも、そこに秘められた想いは大きい。伝えたいことがある。うまく伝わるかどうかはわからない。とぎれとぎれで、尻切れトンボで、もどかしいくらいに愛おしい。そんな時間がここには描かれてある。
3つのお話が同時進行で描かれていく。3本をコラージュさせて、1本の長編作品として紡ぎあげる。いずれも帰る場所についてのお話。『かきつばた』は母と娘。夫の死後10年。ひとりで暮らしてきた母。10年振りの娘の帰郷。なぜ彼女が帰ってきたのは、母は聞かない。娘はしゃべらない。でも、かまわない。お互いにうれしい。母はただ、編み物をするだけ。以前はそんなことしなかったね、と娘が言う。お互いの間に流れた空白の10年を想う。いまはもう不在の夫(父)のことを心に秘めながら。こういうやさしさがたまらない。それを遊気舎の芝居で見せられるだなんて、ある意味衝撃だ。でも、久保田さんの優しさをちゃんと知っているから全く違和感はない。それどころかとても素直に入ってくる。
『くさためほたる』は幼馴染のふたりの偶然の再会を描く。いや、もしかしたら偶然ではなかったのかもしれない。彼は彼女に会いたかったし、彼女も彼に会いたかった。男はこの町を離れてもう結婚したはず。なのに、こんな季節外れの時期にひとりで帰郷している。女はずっとこの町にとどまり、今も実家で暮らしている。もう十分に大人になった2人。小さな町のかたすみで再会し、思い出深い町はずれの森に行く。あの日見たホタルを見に行くためだ。なんともセンチメンタルで気恥ずかしいお話だ。でも、照れずにそれを見せていく。西田政彦と中迎由貴子が素晴らしい。彼らがさらりと演じたから恥ずかしくない。
そして、もうひとつ、なんと役者人生50年(冒頭の役者紹介で、「半世紀が過ぎました!」と言うのだ。おめでとうございます)魔瑠嬢による作品。大女優の晩年を病室のベッドでの会話で描く。これままた、さりげない。大仰な芝居は一切排した。でも、深刻な芝居も、なしだ。
3本ともわかりやすい芝居ではない。明確なオチもない。なんだかすべてを宙ぶらりんにさせたまま。沼にかきつばたを見に行く。山にホタルを見に行く。病室を出て旅に出たいと思う。それぞれの想いが交錯する。黒鞄の男(もちろん久保田浩だ!)はそんな彼らをずっと見守っている。彼が何者で、何のためにここにいるのか、なんてどうでもいい。暗くて重い話なのに、なんだか見終えたとき、気分は明るい。3つの心象風景は久保田さんの心の声だ。そこに耳を澄まそう。チラシの素敵な文章の中にある40年という時間がこの芝居を彼に作らせたのだろう。すっかり白髪頭になった少年久保田浩。つぎはまたやんちゃな芝居になるのだろうけど、彼のこんな芝居も好き。(というか、こんな芝居の方が僕は好き)