週末なんと5本も芝居を見た。金土の二日で、だ。こんなのはほんとに久しぶりのことだ。まるで以前の日常が戻ってきたみたいだ。でもコロナが始まる3年前まではそんなのが普通だった。でも、もうそんなふうに芝居を見ることはないかもしれない。今週末5本見たのが奇跡かもしれない。
そんな5本の1本目がこの作品だ。「空の驛舎短編集」と題された3本の短編を1プログラム2本ずつにして1日で、3番組上演。それぞれ異なる組み合わせで2本セットにした。僕は最初の5時の回『トイレの神様』と『赤蜻蛉』という組み合わせを見た。なんとワンプログラム30分ほどの上演時間だ。短編すぎて笑ってしまう。番組の各回の上演時間編成から、かなり短いとは思っていたが、ここまで短いとは思いもしなかった。40分くらいかな、と思っていたので。でも、こんな短い芝居を往復2時間かけて見に行くのってなんだか楽しい。
大事なことは時間の長さではない。内容の充実だろう。(この日この芝居の後で見た「缶々の階」だって45分と短い。)とても贅沢な時間だった。6月なのに怪談というミスマッチ。でも夏の怪談ではなく梅雨の時期に怪談というのがなんだか清々しい。怖いではなく、懐かしい。
こんなにも短い公演の最初におがわてつや氏の演奏が入る。彼のウクレレ演奏を導入にして、小さなお話が始まる。いずれのエピソードも登場人物は男女2人。
1本目(作、中村ケンシ)は公園トイレの個室にこもっている男(石塚博章)のところに剽軽なカミサマ(峯素子)がやってくる話。ふたりの掛け合いを楽しみながら、やがてなんだか寂しい気分になる。母親への想いが根底にある。そして、なぜ彼が会社のすぐそばまで来ているのに職場に行けないのか、が描かれる。この切なさが身に沁みる。10分強というささやかすぎる時間がこの作品にはぴったりはまる。深刻にはならないのは演じた2人のキャラクターの力でもある。
2本目(作、山本彩)は朝のゴミ出しの光景。黒のゴミ袋(指定の透明な袋ではないから回収してくれないはずなのに)に入れられた生ゴミを女(佐藤あい)は持ってきて、マンション前でゴミ回収車を待つ。そこに男(織田拓己! 懐かしい。昨年のカラ/フル公演以来だ。でも、あれに彼は役者として出ていないから彼の芝居を見るのはほんとうに久しぶりではないか。いや、少し出ていたかも。なんだか最近記憶がいいかげん)がやってくる。女と男の会話劇。やがてこの二人が妻と夫だったということがわかるのだが、果たしてそれもほんとうのところどうなのかよくわからない。大体この黒のゴミ袋の中に入っているのは、彼女の夫のバラバラにされた死体だ、と女が言うし。なんだか描かれるところはとんでもないことなのに、お芝居自体は穏やかな会話劇だ。やがて赤とんぼのメロディに乗っていつものようにゴミ回収車がやってくる。ここでも10分強という時間がうまく機能する。さらりと怖い。でも、それ以上に優しいし、懐かしい。このふたりの関係性が明らかにはならないのがいい。何がほんとうで何がうそなのか、なんてどうでもいい。ただ、この寂しい光景だけが胸に痛い。