なんとなくとても懐かしい作品だ。鹿殺しが東京に拠点を移してから、始めて見た。5年振りということになる。別に避けていたというわけではなく、案内も来なくなったし、なんとなく見る機会がなかったというだけの話だ。今回久々に見せてもらって、ほんとうによかった。上手くなっていたとか、そんな話ではなく、(もちろんとても上手くなってるのは、当然のことだ)この芝居は僕の胸にしっかり響いてきたということだ。とても好きな芝居だ。以前のヤケクソのパワーも嫌いではないが、こんなふうに、端正に作られた芝居が好きだ。彼らの真面目さがよく出ている。
立花団地の幹線道路建設のための立ち退きが、ドラマの題材となる。ここで生まれ育った子供たちの90年代の日々と、大人になった今、とが対比されながら描かれていく。どんどん立ち退いていく住人たち。団地もまたどんどん取り壊されていく。そんな中、最後まで抵抗を試みるのが主人公の輝一(丸尾丸一郎)だ。書けない漫画家の彼が、自ら作り上げたヒーローたちの幻想にとり囲まれながら、ひとりでここに暮らす。両親の残したこの家を守り続ける。
そんな彼のもとに編集者から電話が。編集部に届いた彼の書いたマンガを連載したいという知らせだ。だが、彼には心当たりはない。誰かが描いたそのマンガには、彼の幼い日のことが描かれている。あの日、スーパースターを夢見たこと。今もスーパースターを待ち続けることがそこには描かれている。忘れていた同級生のブッチャーとの思い出がそこには生き生きと描かれてある。
芝居の全編を彩る菜月チョビ(彼女は、輝一の少年時代であるピカイチを演じている)による歌声を背景にして広がっていく90年代のセンチメンタルな世界は、すばらしい。それは誰もがその心の中に持っているずっと昔こどもだった頃の栄光の記憶だ。この芝居はそんな心象風景をひとつの形にして見せてくれる。だから、これはまずなつかしい芝居なのだ。そこにはそれ以上のものはない。現代とあの頃を対比させながら描かれるドラマは今という時代の様々な問題を描くわけでもない。現在の煮詰まった輝一の内面を掘り下げるわけでもない。ましてや家族の問題を突き詰めるのでもない。(弟との確執なんてのも描かれるがそこがテーマではない)正直言うと、ただのノスタルジアでしかない気もする。
だが、芝居としてはそれで充分なのだ。きちんとそれが描かれたなら、この芝居はそれだけで確かな力を持つ。僕はこんなにも気分のいい舞台と出会えたことに感謝している。
立花団地の幹線道路建設のための立ち退きが、ドラマの題材となる。ここで生まれ育った子供たちの90年代の日々と、大人になった今、とが対比されながら描かれていく。どんどん立ち退いていく住人たち。団地もまたどんどん取り壊されていく。そんな中、最後まで抵抗を試みるのが主人公の輝一(丸尾丸一郎)だ。書けない漫画家の彼が、自ら作り上げたヒーローたちの幻想にとり囲まれながら、ひとりでここに暮らす。両親の残したこの家を守り続ける。
そんな彼のもとに編集者から電話が。編集部に届いた彼の書いたマンガを連載したいという知らせだ。だが、彼には心当たりはない。誰かが描いたそのマンガには、彼の幼い日のことが描かれている。あの日、スーパースターを夢見たこと。今もスーパースターを待ち続けることがそこには描かれている。忘れていた同級生のブッチャーとの思い出がそこには生き生きと描かれてある。
芝居の全編を彩る菜月チョビ(彼女は、輝一の少年時代であるピカイチを演じている)による歌声を背景にして広がっていく90年代のセンチメンタルな世界は、すばらしい。それは誰もがその心の中に持っているずっと昔こどもだった頃の栄光の記憶だ。この芝居はそんな心象風景をひとつの形にして見せてくれる。だから、これはまずなつかしい芝居なのだ。そこにはそれ以上のものはない。現代とあの頃を対比させながら描かれるドラマは今という時代の様々な問題を描くわけでもない。現在の煮詰まった輝一の内面を掘り下げるわけでもない。ましてや家族の問題を突き詰めるのでもない。(弟との確執なんてのも描かれるがそこがテーマではない)正直言うと、ただのノスタルジアでしかない気もする。
だが、芝居としてはそれで充分なのだ。きちんとそれが描かれたなら、この芝居はそれだけで確かな力を持つ。僕はこんなにも気分のいい舞台と出会えたことに感謝している。