基本的には、ここにはプレビューは書かない。これは僕の備忘録だから、誰かに読んでもらったりするためではない。だから、宣伝活動につながるようなことはあまりしようと思わない。だけど、今回はちょっと方針転換だ。だってIST零番館の佐藤さんは、あまりに宣伝を疎かにし過ぎだ、と思う。こんなに凄い企画を立てたのに、広報活動がここまで後手に回っていいのか、と心配になる。
まぁ、いらぬお世話かもしれないが、作品の出来があまりに素晴らしすぎてどうしても宣伝したくなった。それだけでない。なにより企画が面白すぎるのだ。
4月20日から5月の12日までのロングランである。まだまだ間に合う。3人の演出家たちがあの《寺山修司》に挑む。オーディションで選ばれた役者たちと3人の演出家たちが信頼する各劇団の精鋭部隊が共演する3本の芝居は、テラヤマの世界とても深いところで抉り出すことになる。彼らが本気であの偉大な劇作家であり、演出家であり、映画監督であり、詩人であり、もちろん歌人でもある寺山修司への挑戦を試みる。これは単なるイベントではない。
最初は思い付きからスタートしたのかも知れないが、彼らが望んでいたものが、ここには確かに存在した。だから、佐藤さんの呼びかけに2人は応えたのだろう。決して充分な準備期間があったとは思えないが、少なくとも昨日見た佐藤さんによる『レミング』の完成度の高さに接した今は、他の2本も充分に期待出来る。
個人的なことだが、10代後半の頃、僕は寺山修司が好きで好きでたまらなかった。誰もがそんな時期を経て大人になるのかもしれない。
最初の出会いは、『田園に死す』である。完全に打ちのめされてしまった。今から30年も昔の話だ。ファースト・シーンから震えた。そして、ラストで、青森の実家の周囲の壁が倒れると、そこは新宿の雑踏で、そのまま彼は母と向き合い食事を食べ続ける。あのシーンを見た時の衝撃は今でも鮮明だ。映画が終わってもしばらくは席を立てなかった。劇場にそのまま残りもう1度最初から映画を見た。(あの頃はそんな見方が出来た。)
その後、何度あの映画を見たことだろうか。ビデオが発売されたとき、一番に購入し、その日はビデオを抱いて寝た。当時ビデオソフトは2万円という高価な買い物だったが惜しくない、と思った。
すべての寺山映画を余すところなく追いかけた。もちろん実験映画の数々もである。1970年代、僕にとって寺山とフェリーニは神さまだった。『レミング』は八尾西武で見た。公演前後に寺山は亡くなり、そのショックからか、あまり舞台の記憶はない。というか、僕にとって寺山は映画の人だったのだ。京都で始めて見た天井桟敷の『奴婢訓』もあまり記憶に残っていない。あの頃、僕にとって芝居は寺山より、唐十郎や佐藤信だった。
映画や作家としての寺山から受けた影響の方が遥かに大きい。高校時代に読んだ『家出のすすめ』は当時のバイブルだった。映画はもちろん『田園に死す』『草迷宮』『さらば箱舟』。寺山の影響から泉鏡花やマルケスに嵌ってしまったのは大学の頃のことだ。寺山とフェリーニではどちらが先か、よく覚えてない。フェリーニとは深夜テレビで『世にも不思議な物語』や『ボッカチオ70』と出合ったのが最初だ。『アマルコルド』と『田園に死す』は僕の人間形成の原点である。
寺山の追悼展でJAシーザーと岸田理生に会い、話をして貰ったときには興奮した。ただの大学生だった僕の話に耳を傾けてくださったことは、一生忘れられない思い出の一つだ。昔話を始めたら永遠に終わることはない。いくらでも忘れていた記憶が甦る。もういいかげんやめておこう。これはISTのテラヤマ博のための文章のはずだったのだ。
劇団太陽族の岩崎さんと、sundayのウオーリー木下さんがそれぞれのやり方でテラヤマにチャレンジする。岩崎さんは初期の作品『大山デブコの犯罪』を取り上げる。ウオーリーは寺山の代表作『書を捨てよ町へ出よう』を再構築する。そして、佐藤さんは寺山の最期の作品となった『レミング』を再現してみせる。
今なぜテラヤマなのか、なんてどうでもいい。こんなに刺激的な作品に出会えたことが何より嬉しい。ぜひたくさんの人に見てもらいたい。
今年に入って既にこれで2本目となるIST零番館プロデュース企画が、これからどんなものを見せてくれるのかも楽しみだ。
まぁ、いらぬお世話かもしれないが、作品の出来があまりに素晴らしすぎてどうしても宣伝したくなった。それだけでない。なにより企画が面白すぎるのだ。
4月20日から5月の12日までのロングランである。まだまだ間に合う。3人の演出家たちがあの《寺山修司》に挑む。オーディションで選ばれた役者たちと3人の演出家たちが信頼する各劇団の精鋭部隊が共演する3本の芝居は、テラヤマの世界とても深いところで抉り出すことになる。彼らが本気であの偉大な劇作家であり、演出家であり、映画監督であり、詩人であり、もちろん歌人でもある寺山修司への挑戦を試みる。これは単なるイベントではない。
最初は思い付きからスタートしたのかも知れないが、彼らが望んでいたものが、ここには確かに存在した。だから、佐藤さんの呼びかけに2人は応えたのだろう。決して充分な準備期間があったとは思えないが、少なくとも昨日見た佐藤さんによる『レミング』の完成度の高さに接した今は、他の2本も充分に期待出来る。
個人的なことだが、10代後半の頃、僕は寺山修司が好きで好きでたまらなかった。誰もがそんな時期を経て大人になるのかもしれない。
最初の出会いは、『田園に死す』である。完全に打ちのめされてしまった。今から30年も昔の話だ。ファースト・シーンから震えた。そして、ラストで、青森の実家の周囲の壁が倒れると、そこは新宿の雑踏で、そのまま彼は母と向き合い食事を食べ続ける。あのシーンを見た時の衝撃は今でも鮮明だ。映画が終わってもしばらくは席を立てなかった。劇場にそのまま残りもう1度最初から映画を見た。(あの頃はそんな見方が出来た。)
その後、何度あの映画を見たことだろうか。ビデオが発売されたとき、一番に購入し、その日はビデオを抱いて寝た。当時ビデオソフトは2万円という高価な買い物だったが惜しくない、と思った。
すべての寺山映画を余すところなく追いかけた。もちろん実験映画の数々もである。1970年代、僕にとって寺山とフェリーニは神さまだった。『レミング』は八尾西武で見た。公演前後に寺山は亡くなり、そのショックからか、あまり舞台の記憶はない。というか、僕にとって寺山は映画の人だったのだ。京都で始めて見た天井桟敷の『奴婢訓』もあまり記憶に残っていない。あの頃、僕にとって芝居は寺山より、唐十郎や佐藤信だった。
映画や作家としての寺山から受けた影響の方が遥かに大きい。高校時代に読んだ『家出のすすめ』は当時のバイブルだった。映画はもちろん『田園に死す』『草迷宮』『さらば箱舟』。寺山の影響から泉鏡花やマルケスに嵌ってしまったのは大学の頃のことだ。寺山とフェリーニではどちらが先か、よく覚えてない。フェリーニとは深夜テレビで『世にも不思議な物語』や『ボッカチオ70』と出合ったのが最初だ。『アマルコルド』と『田園に死す』は僕の人間形成の原点である。
寺山の追悼展でJAシーザーと岸田理生に会い、話をして貰ったときには興奮した。ただの大学生だった僕の話に耳を傾けてくださったことは、一生忘れられない思い出の一つだ。昔話を始めたら永遠に終わることはない。いくらでも忘れていた記憶が甦る。もういいかげんやめておこう。これはISTのテラヤマ博のための文章のはずだったのだ。
劇団太陽族の岩崎さんと、sundayのウオーリー木下さんがそれぞれのやり方でテラヤマにチャレンジする。岩崎さんは初期の作品『大山デブコの犯罪』を取り上げる。ウオーリーは寺山の代表作『書を捨てよ町へ出よう』を再構築する。そして、佐藤さんは寺山の最期の作品となった『レミング』を再現してみせる。
今なぜテラヤマなのか、なんてどうでもいい。こんなに刺激的な作品に出会えたことが何より嬉しい。ぜひたくさんの人に見てもらいたい。
今年に入って既にこれで2本目となるIST零番館プロデュース企画が、これからどんなものを見せてくれるのかも楽しみだ。
良かったです。終わる前に知れて。