習慣HIROSE

映画・演劇のレビュー

RandomEncount 『こどもをころすはなし』

2012-08-21 09:25:19 | 演劇
 とても刺激的なタイトルだ。こんなにもシンプルで、恐ろしいタイトルの芝居が何を描くのか、興味深々で対面した。「僕らは鉱山のカナリアなんだ」というコピーも気になる。

 だが、正直言うと期待はずれ。何が一番問題かというと、死んでしまった少年がまるで見えてこないこと。もちろん作者のねらいは、彼ではなく、その周囲にいる大人たちであることは、明白だが、それでも、中心には彼がいるし、屋上から彼が飛び降りたという事実は消えない。それがなければ、何も始まらないし。不在の彼を巡る話、という意味では、『桐島、部活やめるってよ』と同じパターンなのだ。だが、あの映画と違ってこの芝居の周囲の人物は、あるひとりを除いて魅力的ではない。

 作、演出を担当した周防夏目は、とてもいい視点を確保しているはずなのだ。死んだ少年を描くのではなく、周囲の大人を描く。そのねらいには問題はない。不在の少年の問題なんかどうでも、よくて、自分たちのことだけを、問題にするというのも、すごい。だが、少年の死という事実を上回る彼らの自分勝手な言動に、リアルを感じさせれなかったのは、大問題ではないか。この大胆な構成が効果的なものとなるためには、悪気のある人も、ない人も含めて、周囲の大人たちの心のざわめきをどこまでリアルに感じさせるかが、焦点となる。

 中心となるのは若木志帆が演じた母親である。この女は、とんでもないモンスターだ。子供の守りは、近隣の人たちがするべきだ、なんてことを平気で言う。自分のことしか、頭の中にはない。少年が死んでしまったのは、すべてこの女に原因がある。女ひとりで、子育ては大変だから、甘えられるものには、すべて甘える。そんな無茶クチャな理屈はない。でも、こいつにはそれがある。なぜ、こんな女が生まれたのか。そこを描くだけで、この芝居は衝撃の作品になったかもしれない。だが、彼女はルポライターを主人公にしたドラマの彩りのひとつにしかならない。全体を少年を巡る大人たちの群像劇にするには、この女は特別すぎた。

 このバランスを欠く設定が、作品からリアルを奪う。作りながら、この突出したイメージを作品のなかに収めきれなかったのが問題だろう。だが、それ以上にせっかくのこの設定をちゃんと突き詰めれたなら、これは傑作になったかもしれないと思うと、なんだか、もったいない気がする。彼女だけで、よかったのだ。なのに、平凡な主婦の話のほうが前面に出る。子供を産めない彼女と、そんな彼女の家を頻繁に訪れた少年の関係。そこから、ドラマを起こしたから、あの母親のドラマが中途半端になる。それどころか、彼女のモンスター的存在が、芝居を嘘くさくする。これでは、もったいない。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『桐島、部活やめるってよ』 | トップ | 『あの日あの時愛の記憶』 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。