これを作るにあたっての覚悟。それは並大抵のものではあるまい。大阪での前作『チャンソ』を見たとき、とうとう彼はここまで自由に自分を語れるようになったのか、と感動した。金哲義さんがこれを描くための助走は終わったのだ。時機はきた。だから、彼はこれに挑む。
もちろん簡単なことではない。生半可なことでは描けない。そんなこと、彼自身が十二分に理解している。前作が井筒和幸『パッチギ』と比較しても負けてないように、今回も崔洋一『血と骨』以上に力強い芝居になった。もちろん既存の映画との比較なんかここではなんの意味もない。だいたい金さんの文体は誰にも似ていない。彼オリジナルだ。そのことをわかった上で、でもついついわかりやすいようなこんな比較から書き始めてしまったのだ。どこから手をつけたらいいのだろうか。あまりに語るべきことが多すぎて困るのだ。
この3時間以上に及ぶ壮大な叙事詩は昨日見た金満里さんの『ファン・ウンド潜伏記』と2本並べてもまるで遜色ない。アプローチはまるで違うが、同じ物語を同じ痛みを秘めて描く芝居を2本続けて見て、そこになんだか運命的なものを感じた。これは、今だから語れるものがある、ということなのか。少し前ならこういう題材を扱うとどうしても本来不要な偏見や、要らぬ抵抗があったはずだ。正しく描けなかったり、描いたとしても正確に伝わらなかったりもしただろう。時代は確かに変わりつつある。今だからこれは声高にではなく、しっかり地に足をつけて表現が出来る。
60年に及ぶこの一族の(家族の、と言う方がいいか)物語は、朝鮮から日本に強制連行され、祖国への想いを秘めながら、異国の地に根を張り、生きていくという暗い歴史の物語ではない。差別と偏見と闘いたくましく生きる少年たちのお話というよくあるパッケージングでこれは括らさない。
歴史的事実は確かにあろう。だが、そんな苦難の歴史を紐解くのではない。ここで生まれ。ここで生き、ここで死ぬ。でも、血の絆は続いていく。やがて、分断された祖国が統一される日が来たとしても、それが彼らのドラマの結末ではない。金哲義さんが描こうとしたのは、自分たちの親の世代、さらには祖父母の時代の物語ではない。『今』を生きる自分たちの物語だ。それを描くために祖父母の代まで遡る。そこから始まる物語のひとつひとつを丁寧に描いていくことで自分たちのドラマにやがてたどりつく。ずっとつながっているのだ。
血の絆の中から1本の道筋と、その先にある未来を見据えようとする。これはただの大河ロマンなんかではない。過去の歴史の検証でも断じてない。事実を忠実になぞることを疎かにはしないが、そこに囚われることはない。それ以上にこのドラマを通して伝えたいことがあるのだ。フィクションである演劇というメディアでしか語れないもの。
人と人が向き合い、生きていくということ。そこには国境なんかない。父の世代の怒濤の時代をしっかり見据え、そのことを肝に銘じて、そこにあった真実から、彼らが求めたもの、その願いをこの物語に刻み込む。38度線で分断された祖国。その祖国から遠く離れて、この日本で生きること。
2時間以上ある第1部が終わった時、確実に1本の芝居を見終えたという感動に包まれる。だが、ここで終わるのではない。10分の休憩をはさんで、第2部が始まった時、そこにあるのは長い長い物語のエピローグなんかではなく、ここから始まるのが、本当のドラマだと知らされる。北に行き、兄と再会する、という話から始まり、一族の離散と再会までが描かれるこの現代編とでも呼ぶべき1時間ほどの後半は、第1部で描いたことを踏まえた金哲義さん自身のドラマだ。90年代以降の今と呼ぶべき時代の中での闘いが描かれる。何もまだ終わってはいないのだ。それどころか行先は暗くて果てしない。差別のない平和な時代がやってくるだなんてことは、一言も言わない。そんな生易しいものではない。
まだ何も芝居のことは書いていない。だが、この凄い芝居について何かを語る言葉は持たない。ただ「見ろ、そして感じろ!」としか言いようがないのだ。幾万の言葉もこの芝居の前では無力だ。
主人公の成宗(ソンジョン)を演じた木場夕子が素晴らしい。受身の芝居の中ですべてを見つめていく。彼女の瞳に映ったものがすべてなのだ。彼女と、兄敬宗(キョンジョン)を演じたふくだひと美の2人がこの芝居全体をしっかり支えたからこの芝居は成立したのだ。彼女たちを起点にしてすべてが動いていく。成人してからの2人は金哲義、木下聖浩が演じる。こちらはきちんとやるべき芝居を見せてくれて安心して見ていられる。キャストとして特筆すべきはオバンポン創造社の野村侑志であろう。前半の成宗を支える優等生笠木が素晴らしい。狂犬野村にあの役を与えたのはキャスティングの勝利だろう。そして、第2部の高橋役。生き生きしていた。あれでなくては野村侑志ではない。
もちろん簡単なことではない。生半可なことでは描けない。そんなこと、彼自身が十二分に理解している。前作が井筒和幸『パッチギ』と比較しても負けてないように、今回も崔洋一『血と骨』以上に力強い芝居になった。もちろん既存の映画との比較なんかここではなんの意味もない。だいたい金さんの文体は誰にも似ていない。彼オリジナルだ。そのことをわかった上で、でもついついわかりやすいようなこんな比較から書き始めてしまったのだ。どこから手をつけたらいいのだろうか。あまりに語るべきことが多すぎて困るのだ。
この3時間以上に及ぶ壮大な叙事詩は昨日見た金満里さんの『ファン・ウンド潜伏記』と2本並べてもまるで遜色ない。アプローチはまるで違うが、同じ物語を同じ痛みを秘めて描く芝居を2本続けて見て、そこになんだか運命的なものを感じた。これは、今だから語れるものがある、ということなのか。少し前ならこういう題材を扱うとどうしても本来不要な偏見や、要らぬ抵抗があったはずだ。正しく描けなかったり、描いたとしても正確に伝わらなかったりもしただろう。時代は確かに変わりつつある。今だからこれは声高にではなく、しっかり地に足をつけて表現が出来る。
60年に及ぶこの一族の(家族の、と言う方がいいか)物語は、朝鮮から日本に強制連行され、祖国への想いを秘めながら、異国の地に根を張り、生きていくという暗い歴史の物語ではない。差別と偏見と闘いたくましく生きる少年たちのお話というよくあるパッケージングでこれは括らさない。
歴史的事実は確かにあろう。だが、そんな苦難の歴史を紐解くのではない。ここで生まれ。ここで生き、ここで死ぬ。でも、血の絆は続いていく。やがて、分断された祖国が統一される日が来たとしても、それが彼らのドラマの結末ではない。金哲義さんが描こうとしたのは、自分たちの親の世代、さらには祖父母の時代の物語ではない。『今』を生きる自分たちの物語だ。それを描くために祖父母の代まで遡る。そこから始まる物語のひとつひとつを丁寧に描いていくことで自分たちのドラマにやがてたどりつく。ずっとつながっているのだ。
血の絆の中から1本の道筋と、その先にある未来を見据えようとする。これはただの大河ロマンなんかではない。過去の歴史の検証でも断じてない。事実を忠実になぞることを疎かにはしないが、そこに囚われることはない。それ以上にこのドラマを通して伝えたいことがあるのだ。フィクションである演劇というメディアでしか語れないもの。
人と人が向き合い、生きていくということ。そこには国境なんかない。父の世代の怒濤の時代をしっかり見据え、そのことを肝に銘じて、そこにあった真実から、彼らが求めたもの、その願いをこの物語に刻み込む。38度線で分断された祖国。その祖国から遠く離れて、この日本で生きること。
2時間以上ある第1部が終わった時、確実に1本の芝居を見終えたという感動に包まれる。だが、ここで終わるのではない。10分の休憩をはさんで、第2部が始まった時、そこにあるのは長い長い物語のエピローグなんかではなく、ここから始まるのが、本当のドラマだと知らされる。北に行き、兄と再会する、という話から始まり、一族の離散と再会までが描かれるこの現代編とでも呼ぶべき1時間ほどの後半は、第1部で描いたことを踏まえた金哲義さん自身のドラマだ。90年代以降の今と呼ぶべき時代の中での闘いが描かれる。何もまだ終わってはいないのだ。それどころか行先は暗くて果てしない。差別のない平和な時代がやってくるだなんてことは、一言も言わない。そんな生易しいものではない。
まだ何も芝居のことは書いていない。だが、この凄い芝居について何かを語る言葉は持たない。ただ「見ろ、そして感じろ!」としか言いようがないのだ。幾万の言葉もこの芝居の前では無力だ。
主人公の成宗(ソンジョン)を演じた木場夕子が素晴らしい。受身の芝居の中ですべてを見つめていく。彼女の瞳に映ったものがすべてなのだ。彼女と、兄敬宗(キョンジョン)を演じたふくだひと美の2人がこの芝居全体をしっかり支えたからこの芝居は成立したのだ。彼女たちを起点にしてすべてが動いていく。成人してからの2人は金哲義、木下聖浩が演じる。こちらはきちんとやるべき芝居を見せてくれて安心して見ていられる。キャストとして特筆すべきはオバンポン創造社の野村侑志であろう。前半の成宗を支える優等生笠木が素晴らしい。狂犬野村にあの役を与えたのはキャスティングの勝利だろう。そして、第2部の高橋役。生き生きしていた。あれでなくては野村侑志ではない。