詩人であり、小説家でもある石田千さんの書く詩でもなく、小説でもない、ましてや、安易なエッセイでもない作品。このノンジャンルの文集は、ことばと戯れるわけではなく、ことばによって、人間や時間とのかかわりを描く。帯には「あたりまえに失われる毎日をひきとめたいと書くことは、だいそれた望みと思う」と書かれてある。これはそういう文集なのだ。
最初の数編を読んで、そのあまりのとりとめのなさに、少しつまずく。頭の中に何も残らない。どんどん流れていくのをどうしたらいいのかと、とまどう。でも、さらに先をどんどん読むうちに、この「ことばたち」に身を任せればいいんだ、と思うこととなる。そこにある時間(文を読んでいる時間、彼女がこの文を書いた時間、書かれた中で体験したことも含む)に寄り添い、その心地よい快感に身を委ねる。それだけで、十分だと思う。後には何も残らないかもしれないけど、その瞬間の心地よさだけで十分満足できる、と思えばよい。意味なんかいらない。そう思うと楽になる。
最近、僕はルーズになり、なんでもかんでも自然体。こうして文章を書いていても小説(映画、芝居も同じ)の説明や意義とか、感想とかを、ちゃんと書いてない。こんなものおこがましくて、批評だなんて言えない。
でも、それでいいんだ、と思っている。逃げ道を作るのではない。やりたいように、やる、でいいと思うからだ。これは誰のために書くわけでもない。自分への備忘録だし、ただ単なる「習慣」でしかない。(でも、誰かが読んでくれると、それはそれでうれしい)
写真と、文章は連動している。でも、緊密ではない。それどころか、その余白がおもしろい。写真を見た後、タイトルを見る。そして、文を読み始める。終わった後、もう一度改めてタイトルと写真を確認する。そういう作業をして読み進める。22編の短編は、22の行為だ。「ふれる」から始まり、「おどる」まで。タイトルはすべてひらがなで示される。書かれた文は、タイトルと微妙にリンクする。もちろん、説明にはならない。
どれがよかったか、なんて感想を書くのも、なんだかなぁ、だけど、どれも気持ちいい。連続で読むのは少しもったいないけど、ずっと手元に置いておき、毎週1本ずつ読むとか言うわけにも,いかないから、2日間で読んでしまったけど。心にいり、降りてきたものを大切にしたいと願う。生きていることのよろこびを実感する。そんな作品だった。