「やまちゃん」(お台場たこ焼きミュージアム)

 
 
 

 今日は家族でシルク・ド・ソレイユの「キュリオス」を観劇しました。楽しめましたが、もう少しアクロバティックというかサーカスっぽい方がよかったかも。以前観た別の日本公演のことは忘れていましたが、前回もこういうやつだったことを思い出しました。ラスベガスで観た「オー」や「ミスティア」と比較するとどうしても圧倒感が違うよなあと感じてしまいます。

 食事は大阪USJ場外にある「大阪たこ焼きミュージアム」の姉妹施設にしました。たこ焼き店のラインナップもほぼ同じです。

 笑ってしまうくらい施設全体・店員さんに元気がなく不安になりましたが(オープン当初の大阪出身/関西弁スタッフはほぼいなくなったのでは)、絶対王者の「やまちゃん」はお台場でもうまい。外カリ中トロ、ヤケドしそうなくらい熱々なのは大阪たこ焼きの王道です。たこ焼き16個と明石焼き8個をペロリです。

 追加は再やまちゃんが手堅いのですが、いつものように味を変えて「十八番」と今回は「芋蛸」にしました。十八番は天かすの食感がよかったです。会津屋もくくるも美味しいのは分かっているのですが、いろんな場所、機会に食べるチャンスはあるのでパスします。

 いつも思うことですが、やまちゃん一択で大満足、問題ありません。次回はそうしようと思います。





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犬養道子「アメリカン・アメリカ」

 


 1948年9月のある夕べ、由緒あるこのユニオン・パシフィック特急の2等個室に、(何しろ4晩5日かけて行く大横断だから、1等も2等も個室寝室。特等はサロンつき2室。共同のシャワーから床屋設備まである列車)ひとりの日本人女子留学生が乗り込んでいた。持っているのは善意のアメリカ人友人の買ってくれたニューヨーク・ロスアンゼルス間片道切符1枚。東京マッカーサー司令部の判の入る占領下のパスポート。明らかに大戦のずっと前に購入したものとわかる流行おくれの小さなスーツケース。着ているものも物資乏しい敗戦の国で苦労してととのえたと一見わかる服。古い毛布を細工して縫った半コート。

 乗りこむとすぐ、彼女は列車付黒人ボーイを呼んでベッドをつくってもらった。「まだ陽は高いよ、ミス(お嬢さん)」とボーイは言った。ボーイが出て行くのを待ちかねて彼女はベッドにもぐりこんだ。熱があった。咳ははげしかった。からだは痛かった。挫折した留学の夢。砕かれた青春の夢。心の痛みはからだの痛みを上まわり、これから行くべきカリフォルニアの結核病院のことすら彼女に忘れさせた。

 列車がニューヨーク州西端の深く壮麗な渓谷にさしかかるころ、食堂車のベルが鳴った。が、彼女は食堂に行かなかった。あまりに苦しかったからでもあるが財布の中味が悲しくなるほど乏しかった(当時、奨学金学生に給与される小遣いは月10ドル。占領下の祖国からの送金は不可能であった)からでもある。翌日のひる、ノンストップだった列車はデトロイトに着いた。車体を洗い点検する2時間の停車時間に、他の乗客は自動車王フォードゆかりの町に行ってひるをすませた。しかしここでも彼女は食事をぬいた。さすがに空腹にたえかねて、彼女があのボーイを呼びトマトサンドイッチ(これは一番安くて、当時10セントであった)とオレンジジュース(当時3セント)をとりよせたのはその午後だった。翌日。オクラホマの大草原。疾駆する馬上のカウボーイの一群がはるかに見えた。彼女はもう一度ボーイを呼んでトマトサンドイッチとジュースをたのんだ。
「ミス。なぜ食堂に行かないのかね。食堂にも安いものはあるよ」
「気持ちがわるい。」
「病気かね、ミス。そうだ、病気だよ、あんた。どこまで行くね」
「モンロビア。モンロビアの病院・・・」

 モンロビアは、終点ロスアンゼルスから、超特急のスピードでなら半時間ばかりの手前にある、1日に鈍行列車の客10人がいても今日はみいりがいいと駅長のよろこぶような小さな駅であった。が、その町は常夏清澄のカリフォルニアの中でもぬきん出て、空気のよい谷間にあったから、名だたる結核サナトリウムが10近くもひしめいて建てられていたのである。
「ふむ」
と黒人のボーイは呟いて姿を消した。

 まもなく白人の車掌と一緒に戻って来た。
白人は娘に聞いた、「モンロビアに行きなさるって?ロスからどうやって?」
「バスで」
 と留学生は言った、「バスは1日に何本出るかしら・・・この汽車がロスに着いたあと、すぐバスがあるといいんだけれど」
「バスは多かあないね」
 と白人は言った。それきりだった。白人も黒人も行ってしまった。女子留学生も、それきり、この小会話のことは忘れてしまった、思い当たったのは、いよいよ明日の朝は終点ロスアンゼルスに到着すると言う夕方であった。紅と紫に燃えたつ美しくもおそろしいグランド・キャニヨンを渡りおえたとき、車内アナウンスがあったのだ。留学生は吐き気と咳になやまされながら、このときもぐったりとベッドに横になって聞いていた。アナウンスはこんなことを言いはじめた。

「車内の皆さまに申し上げます。列車は明朝終点に着きます。が、終点ロスアンゼルスの手前、時間にして30分の地点、モンロビアに-ご承知のとおり当列車はふつうなら終点までノンストップですが-1分間、停車いたします・・・」

 へえ、停車するの、そんなこと知らなかった、と留学生はぼんやり考えた。それならそれとあの車掌、言ってくれたらよかったのに。が、次のアナウンスを耳にしたとき、彼女はびっくりして吐き気も忘れて起き上がった。

「・・・車内の皆さま、この列車には、病気で、モンロビアの病院に行く日本人留学生が乗っております。大へん苦しいらしいのです。ロスアンゼルスからバスでモンロビアに行くのは、彼女にとって大へんなことなのです。で、乗務員一同は昨日ワシントンの鉄道省本部に電報を打ち、彼女のための臨時停車の許可を乞いました。返事はただいま着きました。『停車せよ』と。『モンロビア駅長への連絡及び留学生のための担架手配は本省がすでに行った』と・・・ですから皆さま、明日の第一の停車駅はロスアンゼルスではありません。終点到着が数分おくれることもどうぞ御了承ください・・・」

 いつか留学生は泣いていた。感動のあまりに泣いていた。
「ああ、デモクラシイとはこう言うものであったのか、コモン・マンの伝統とはこう言うものであったのか・・・これなら敗けても仕方なかった、敗けるのは当然だった・・・」と思いつつ、いつまでも彼女は涙をふいた。

 翌朝。
 閑散と小さなモンロビア駅には、駅長と、赤十字のしるしの上衣を着た人と、担架とが出ていた。
 ふり向けば、あのボーイ、あの車掌、そして窓と言う窓には押しあいへしあいのぞく顔、顔。
「早くよくなるんだよ」「神のおめぐみを・・・」
「必ずよくなるから安心しなさい」
「元気でね」「勇気を忘れずにね」
 中の何十人かは手をさしのべて、もう動き出した列車からホームへ名刺などを投げた。
「うちの番地だよ、困ることや不自由なことがあったらすぐしらせなさい」
「私に電話して頂戴・・・」
「たずねて行くよ・・・さようなら」
 10ドル札を投げてくれた人もいた。

 留学生は、抱くようにして担架にのせてくれた駅長の大きな手を握りしめてまた泣いた。

 以来3ヶ年、千日の余。どこの馬の骨とも知れぬ、曾ての敵国の留学生は、サナトリウム中で一ばん、訪問見舞客の多い「幸な病人」であった。たった1日の休日である日曜日をさいて、丸3ヶ年、毎週欠かさず、見舞うと言うことは尋常ではない。その、尋常には出来ぬことを、アメリカのコモン・マンの数人はやり通したのであった。

「あの列車の一乗客より」の名で、クリスマスに、イースターに、いくつのプレゼントが贈られたことか、籍をおいた東部のカレジの「学生一同」からの毎月の小包みのおかげで、留学生はいつも新しいパジャマを着け、歯ブラシ石鹸のたぐいを買う必要を全く持たなかった。無名で医療費も送られて来た。

 -留学生は私である。

 そう、私があの大病にもかかわらず生きていま在るのは、アメリカのコモン・マンのおかげである。

 命を助けられ、「発病の外国人学生は即刻帰国のこと」の法律を、それこそ身を以てはねつけて「薬も食物もまだ乏しい日本にこの病人を帰すことは出来ぬ」とがんばってくれた主治医以下おびただしい人々によって3ヶ年の療養をさせてもらった感謝のしるしに、アメリカの貧しいコモン・マンの子女の奨学金の一部にもと、私もまた無名で(すなわちコモン・マンの伝統にしたがって)ここ数年、新学年の季節にわずかの金を東部のカレジとサナトリウムに送りつづけている・・・


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 先日亡くなった犬養道子さんの『アメリカン・アメリカ』から導入の印象的なエピソードです。犬養さんの本は、学生時代に読んだ『人間の大地』とこの本が印象に残っています。会社のとある研修で講師の方がこの部分を読み上げたのを聴いて感動しました。よく覚えていないのですが、その先生からもらったのか、自分で買ったのかの本です。
 残りの限られた時間の中でもう読まないだろう本は思い入れの強いモノも割り切ってブックオフに売っているのですが、この本は手放せずにまだ持っていました。





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