想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

塀の内?外?どっちやねん

2009-03-20 12:43:30 | Weblog
        (親分、どっちやねん?)    





    東南の方角はまだ暗い雲が。
    でも北西の空は晴れてきた。
    これは庭の真ん中からで左、右と向きを変えて撮ってみた。
    雲の流れ、見ていて飽きない。

    雨雲の下を北へ北へと走り、帰り着いたらちょっと晴れ間が出ていた。    
    今日はカメラを仕事場に置き忘れてきたのでケータイで撮る。
    カメラの腕などないので、何でとろうが対して変わりもなくお天気だけが
    心配なのである。だから青空を見たとたん、身支度もそこそこに表へ出た。

    フェンスのそばに立つ監督さん、いや親分さん、あーたは内側ですか?
    それとも外側ですか?
    はい、正解は外から内を覗きこんでいるところです。異常なし!ってか。

    山にはまだ白い雪が見えるが、このところの暖かさで地面はなんだか
    もっこりと持ち上がってきたように見える。
    樹々の細い枝に、プチッと芽がついているのもあちこちで発見。
    いわゆる春らしい芽吹きはとても遅い。
    ゴールデンウイークに桜が咲いて、若葉も一斉に存在を主張してざわざわと
    騒がしくなる。
    春と初夏が一度にやってくるこの谷間で、今は春でもあり冬の終わりでもあり、
    でもやっぱ春なんだな、と服の軽さで気づく。
    セーターの上にフリースを着てさらにダウンジャケットを着てたんだものなあ。

    (で、気持ちはどうだ? 軽いかい?)
    (う~む、そうもいかんのよ‥。人生は常に重く、ゆえに楽しみありだなあ)

    

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in 南青山

2009-03-20 05:20:15 | 
    
    デジカメをもって南青山を散策した週なかば。
    ライブハウス「ブルーノート」の出演者リストなどを
    眺めて、このごろはジャズはもっぱらCDで聴くばかり
    なのを慰める。気になるアーティスト見当たらず。

    根津美術館は改修工事中で(今秋オープン予定)工事用塀に
    囲まれ無粋な姿になっていた。
    青山通りへ向う道への途中、プラダのはす向かいにひっそり
    立つコンクリート打ちっぱなしのビル壁面に能装束のポスターが
    飾られている。
    コンクリート壁に貼付けられた表札は、鉄仙会能楽研修所。
    ここでは毎月月例の公演と水曜日の青山能が催される。
    この通りを歩く人はファッションビルや流行のショップや
    近隣に多いデザイン事務所などで働く人が多い。遠くから
    遊びに来た人も能のポスターなど見向きもしない。
    外人旅行者さえ気づかずに通りすぎる。

    「能」の演目を「男」「女」「鬼」にジャンル分けし、読み
    安く編集された多田富雄氏監修の本「あらすじで読む能50」
    を読めば能を見たくなるかもしれない。

    「井筒」は、亡憶(ぼうおく)の物語(世阿弥)。
    日は命の次元で真実を映す、月は魂の次元で現実を映すとある。
    (この頁解説:観世流河村晴道)
    そうだなあ、先日書いた月夜見尊にもあるように陰のハタラキ
    だから現世に生きる肉体が陽なら対して魂は陰、そして月。
    ゆえに永遠性を表す。

    物語の冒頭、井戸に水鏡して遊ぶ二人は、すでに丸い月のなか。
    互いに今生の生を終え、契りに変わりはないことを謡う。
    始まりと同じように恋慕は続き、終わりない円環のように思い
    続ける女心。決して執着ではなく。

    人が人を恋いこがれ思うとき、願うのは相手と一体になり
    とろけあうこと。
    後シテで井筒の女は業平の、つまり男の装束を纏って舞う。
    一つになることで、恋慕は遂げられる。
    それができるのは女と男であり、鬼ではない。
    思い続け、執着ゆえに鬼になる物語もあるわけで、紙一重の
    違いであさましさと切なさが分かれる。

    現実には月に光に照らされて想い人への気持ちを回想するのは
    男の方ではなかろうか、とふと思う。
    父は成仏したとき月光を浴びながら、残った母の安寧を願って
    いたから。
    母は今、老いの日々を楽しみ過去など忘れてしまいたいようである。
       


    青山通りでみつけた花屋の店先は、春でいっぱい。
    写メを母へ送った。
    意外にも「覚えているよ、その場所を歩いたね」と言ってきた。
    少しはとっておいていい過去もあるようで、ほっとした。
    父を恋した気持ちは生活の重みに押し流されたのであろうから、
    それもまた切なさゆえだろう。
    忘れたような顔をして長生きしても、少しもあさましくはない
    と思うのである、ね、父さん。
    
    ~寄り道して移動中、もうすぐ森へ~
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