想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

情景、庭の変遷

2009-03-27 09:16:41 | Weblog
  まだまだ寒さの残る森と谷間では、水仙待ち。
  ぽかぽかしてくるちょっと前くらいに咲いてくれます。
  これは前年のもの。
  花壇の変遷は、そのときどきに計画して行ってきたことは忘れていて
  写真を見ると思い出します。
  数年間には柵を作り、その柵はもう腐ってしまって取り外したので
  今は一部をテラコッタで囲んであるし、盛り上げてあった土も平坦になった。
  キメになるような花や木に巡り会わないから、変遷しつづけていたわけです。
  



  恋するたびに、今度は長続きすると思ったりする。
  でも数ヶ月の蜜月を過ぎると、醒めている自分をもてあますようになる。
  あとは惰性なんだけど、惰性のときこそ鍛えられるというもの。
  この花壇で、この1、2年間、うさこのアサーイ愛に耐えてきた薔薇は
  忍んだかいあって、植え替えしてもらいました!

  運命の出会いかどうか、まだわからないけれど花壇のクイーンの座におちついた
  山吹、プリンセスの座には黄色い花をつけているサンシュウ。
  若葉の頃まではうさこの視線は熱く熱く注がれるわけで。

  変遷のときを経て、成熟していく庭。
  庭は己を映すと思うのだが、ヘッセの晩年は庭仕事がなにより第一番だった。
  文学と庭仕事が同義にあり、優先順は庭にあり、ヘッセの思索はガーデニングに
  よって生まれた。
  そういうことを知ってはいたが、森で造園するという冒険をしていると
  実感としてわかる。
  メイ・サートンの静謐な詩と、そして示唆に富んだエッセイも庭抜きには
  ありえないし、飄々として日本全国の働くサラリーマンを癒し続けた作家、
  故山口瞳氏は国立の自宅の庭で焚き火をしていた。

  都会で花木を映しても力が足りないので、つい空を撮る。
  空にビル群が映りこむので、ならばと地面を撮る。
  人だけ、撮らない。撮る気にさせる出会いが少ない。
  もっぱら地域ネコなどに熱視線を送ってしまう。

  何も無い、だけど土と水と木があるこの幸せをどこにいても覚えていたい。
  それは愛されている実感と同じで、一人でいられる秘訣だから。
  冷たい風のなかで土をいじっていると、考えが湧いてきて、家に戻るのである。

  家の中で、まんじゅうを食って、とりあえず落ち着くと考えは消える。
  再び、庭へ戻ってゆくうさこである。
  人は、いかにして恥を知ることができるか。
  そんなことの答を探しているが、わかっているはずのことを書けるほどには
  わかっていないのである。ボーゼンとする。
  庭の変遷はまた、住む人の情景と重なっている。
 


コメント
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