想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

海へ、ひらひらワンピとサンダル

2009-03-13 10:37:09 | Weblog
   博多の海は、このもっと先にあります。
   若い頃、ほんとに若いつまりおバカバカだった頃、志賀島へ行きました。
   埠頭の船着場で、ロングひらひらスカートに8センチのウェッジヒール、
   足首に紐を巻き付けるタイプのを履いて、モタモタ歩いてたのがあたしです。
   友人は、その格好に呆れ果て、でもかわいいねー、かわいいねーと言って。

   志賀島で何したのか、とんと覚えていません。
   行こうと言ったのはあたしです、たぶん。
   海べりとか島に憧れるクセが今もあるので、たぶん、そうです。

   試験勉強漬けの日々、春休みかなんかに息抜きに出かけたのだと思います。
   何をしたのか忘れてしまったのは、理由があります。
   思い出したくない事を、それに関連する諸々の事をも引き連れて記憶の沼の底に
   沈めてしまうからです。
   ひらひらスカートと同じ靴で出かけた別の日、春休み明けのある日、
   唐突に失恋したあたしは、このスカートを姉貴にあげてしまいました。

   スカートの上にお揃いの生地のワンピースを重ねて着るタイプの、このごろ流行の
   レイヤードファッションみたいな服は、妊娠中でお腹が目立つ姉貴にはちょうど便利
   だろうと思ったのもありますが、もう着ないことにしたからです。
   「じぶん、なに、その服。ひらひらしとうな、どうしたん?」と好きな人に言われて 
   言われてもしょうがないような、その頃、とても情緒不安定だったのですから。
   ああ、この人もあたしをもてあますんだろうなあ、と思ったのでした。
   その思いだけは鮮明に覚えています。

   どうしたん? と博多訛で言われて、でも本当の思いなど言えるわけもなく
   「いいでしょ、きれいだったから買った」と答えました。
   どうしたん? とさらりと彼が言った言葉に含んだ棘があるように思えて、
   それはあたしにだけわかる棘かもしれないけど、それきり会わなくなりました。
   きっとあたしが変だったからでしょう。その人のせいではない思います、今は。
   志賀島とあのピンクの服は別々のことなのに、一つのセットになった思い出。
   この博多の海に沈めてしまいたいような出来事でした。



   仕事で訪れただけの博多で、海をどうしても写真にとりたくてちょっと歩きました。
   山の中にいると湘南とか房総にあこがれがあります。
   でも実際にそこへ行ってもなんだか寂しい。
   ピンクのひらひらの服を着ても寂しい。
   暗く蒼い顔だった若い頃、居場所がないあの感じと似ています。
   考えるのにふさわしい場所やふさわしい服がある。
   そういうことをまだ知らなかった頃、トンネルの中を歩いていたころに、
   自分に似合うものを纏えばもっと明るくなれるのだと、暗い顔にも赤みがさすことを、
   誰かに教えてほしかった。
   遠い昔のことだけれど、あの頃のあたしがあまりにかわいそうだから。
   それはもう、わたしではないから思う、怒りに似た気持ち。

   海を見てふりかえり、そんな愚痴ともつかぬことをつらつら考え、
   空き缶なんかそこにあったら、蹴っ飛ばしたわね、なかったけどー。
   さあ山へ帰ろう、自分の居場所へ。
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いつか花咲く日を

2009-03-12 08:12:42 | Weblog
     中央の木が先日植え込んだヤマボウシ、今はまだこんな風景です。
     下は昨年の6月のヤマボウシ。
     自生していた木、毎年白い花と赤い実をつけ楽しませてくれます。



     植え込んだヤマボウシに花がつくかどうか、どきどきしながら待っています。

     下の花壇にはバラの苗木を植え替えました。
     ピンクの花をつける予定のオールドローズ4本と白いモッコウバラ。
     この場所で育ってくれるかどうか、全然、かいもく、未定、不明、わからな~い。
     これも花を待っています。
     葉が茂るように、これからせっせと尽くさねばなりません。
     緑の柵はヒャッキンで調達、シマコちゃん除け(用足しするので)です。

     

     面倒くさがりのうさこがどうしてこういうことに手を出すのか?
     それは、花が見事に咲いてくれて、咲いたらチョーチョーチョー嬉しいことを
     知ってしまったからにほかなりません。
     味をしめるとはこのことです。たいていのことはひとたび味をしめるとハマる
     ということなんでしょうね。
     うさこの数少ないハマりです。
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でかいハート

2009-03-11 12:55:49 | Weblog

   縁側の端っこにシマコが写っているの、みえますかー?
   同席できるようになりました、めでたしめでたし。
   家庭で犬と猫を仲良く飼っていらっしゃるところがけっこうあり
   ますが、なにせシマコはノラなので警戒心が強くて。
   縁側と庭の争奪戦では、親分がいつも譲っていました。

   譲られ続けて、シマコちゃんは警戒心を少し解いてくれた。
   うさこも親分にいつも譲ってもらっています。
   スイーツを先に食べていても、じっとみつめて待つけなげさ。
   砂糖のかかっていないところをほんの少し残し、チョコ以外は
   それがたとえ、ハナクソ程度でも、じっと待っています。
   何につけ、うさこより先に食べることはないので、いつも譲って
   もらっているってことです。

   食べることだけじゃなくて、歩くのも、うさこより先に前には
   出ない親分。
   でかいのは図体だけではありません。
   親分は、気持ちもでかい。
   でかいハートに包まれていると、いつかやさしさを覚えます。

  
 
   
   
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笑いながら走ると

2009-03-10 15:10:04 | Weblog
   笑いながら走ると、こんな顔になります。

   演劇というものをどう楽しめばいいのかわからない
   時がしばしばあります。
   途中で席を立つのも失礼だと思うので覚悟して行く
   のではありますがそれでも帰りたくなるときは、
どうにか楽しみを探そうと懸命に努力します。
   演劇を見ているわたしが観客を演じるの構図です。

   日常生活は演劇である。
   そんなこともふと思います。
   一人暮らしをしていれば、好き放題、勝手気ままかも
   しれませんが、自分以外の誰かがいればそうも行きません。
   笑顔を作ったり、場をなごませたり、できるだけ居やすい
   ようにします。
   もう一人の「私」がそれを客観的に見ている。
   その「私」が演出家と舞台監督です。

   演じるというとわざとらしのはダメじゃない?と思うかも
   しれないけど、本当に見ていられる演劇はわざとらしくは
   ない本気でその役柄になりきっているものです。
   日常生活もほんとうにやさしくいようとすることや
   楽しく明るくいようとすることで変わっていきます。

   本心でなければ嘘くさく半端で結局、あいまいな『私』が
   そこに現れます。
   創りだそうという意志は舞台も生活もそう変わりはないの
   ではないか。そんな気がします。

   舞台は仕事だが、生活は生活だ、という考えからちょっと
   発想を変えてみると、どんな人にもオーディエンスはいて
   どこかに視線があり、歓声が声援が批判の声があるのだと
   思ったりします。

   親分の、わたしを楽しませようとする目の輝きを見て
   わたしもそうだ、そうだ、ととたんに楽しいモードに切り
   変えるのです。

   彼は我が家の名優です。
   地上に不条理の悲しみが溢れるときも
   荒んで魂を忘れてしまいそうなときも
   人は生きていかねばならないので。


      

    
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鹿児島紅梅の可憐

2009-03-09 01:41:50 | Weblog

     昨日に続いて植木の植え込み作業を一日がかりで行った。
     鹿児島紅梅の紅色は濃い桃色、紅に近いピンクで小さな花が可愛い。
     枝ぶりが梅らしいし、とても可憐なので、どこからも見える中央に
     植えた。
     ダイニングからも縁側からも見えるし、外から帰ってきたときに一番に
     目に入るので、春の来客のおもてなしにグー(エドはるみ風に)。



     ヤマボウシは一段高くなった場所、今は広場みたいになっている芝を
     植えている一角の中央にシンボルツリーのように植えた。
     一番姿のよいのを選んで。
     緑が茂る頃、白い花が緑に映えるヤマボウシ。
     前から自生していたのは川べりなので家の中からは見えない。
     今度は紅梅同様にどこからも見えるようにした。

     根を包んだ布ごと植えるといいとTさんが言われたそうなので、大きめの
     穴を堀り肥料を混ぜた黒土を入れ、ヤマボウシの根をそっと降ろす。
     すごく重いのが見ていてわかるので、カメが持ち上げている脇から手を
     出して、おっちょこちょいのうさこは手にちょっと怪我を。
     手は商売道具なのに、アホである。
     (でももう腫れも引いたので、こうしてキーボードを叩けます)
     カメはといえば、手伝いにもならんし心配事をふやすだけのうさぎと昼寝
     しにきたシマコを横目に、無言で働いておりました。
     N君たちの仕事はたぶん、残っていないでしょう。

     冬来たりなば春遠からじ、となんとなしに口に出して言う。
     冬が去ったということが、粉雪が舞っていてもわかるのだ。
     冷たい風だけど、その冷たさが冬とは違って、一瞬に春の息吹を感じる。
     雪の下から重なり積もっていた枯れ葉が現れ、その下には守られるように
     新しい芽が、その小さな柔らかな顔をのぞかせる。
     春の大風で枯れ葉が乾き吹き飛ばされるのを、じっと待っているのだ。
     もういいと、御用済みだと、枯れ葉を押しのけたりしない。

     「自然は集合意識で動いてて、人のような勝手をしないのね」
     「そうさ、うまくできているし、うまくやるのさ、みんなして」
     「ああ、それを邪魔してるんだね、こっちの方が‥」

     この場所に融けていられるようになれるかな、なりたいなと、
     腫れた手をじっとみるなり。
          
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猫の手も借りたいとこ

2009-03-08 11:54:03 | Weblog
  昨日は粉雪が舞って風の冷たい一日だった。
  午後のほんのひととき陽がさすと、シマコが遊びにきて
  あれま、こんな顔して。
  ヒューヒュー、可愛いこちゃんだなあ。
  でもあーた、何匹子どもいるのさ、今もお腹に赤ん坊でしょ
  でしょ、でしょ、でしょ、とうさこが言う訳は…



  Tさんがおとといの朝一番で運んでくださった沢山の植木。
  (Tさんは宇都宮在の宮司さんである)
  それを運びこむだけでも大仕事、いつものようにカメは平気な
  顔してるけど、2メートル以上ある植木なのでけっこう重い。

  庭に移殖する前に配置を決めねばならないが、うさこは
  嬉しさのあまり、考えがまとまらないのである。
  えーと、狼狽じゃなくて蝋梅でしょ、姫沙羅でしょ、山吹でしょ
  山紅葉、マンサク、ヤマボウシ、山シュウ…
  縁側からの眺めを想像し、庭のどこに植えるかを考えるが
  どれもこれも近くに置こうと欲張るからまとまらないのである。
  榊だけは定まっているが、欲しかった木を一度に目の当たりに
  して、なんという贅沢なことだと思い悩んだのであった。

  造園は哲学である。
  てなことをしみじみと思い出す。
  目先のことだけを思っていては庭は造れない。
  庭は思想である、大げさでなく。
  ベス・チャトーの庭園に憧れるうさこは、チャトーが苦労した
  風土とは真逆の、雨の多いこの森にどんな木が育つかまだよく
  わかっていない。

  緑の葉が茂り、花が咲き、実をつけ、時のめぐりを待つ
  だけでなく、色、形、そして木本来の性質を思いやる。
  そして景観全体のバランス。
  好きなものだけを目の前において楽しみたいというのとは
  違う庭造りをしたいのだ。

  運びこんだ植木を固定し、大風に吹き飛ばされないようにした
  ところでひと休み。  
  
  考えがまとまらないので、屋内にしまってあったモッコウバラ
  の苗木を地植えする準備でも先にしておこう。

  カメは何を考えているのか。
  たぶん運びながら、頭の中で配置など決めていってるんだろうな。
  そこがうさことカメの大きな違いである。
  口応えなどせずに黙って、お手伝いしましょ、
  「ねこのて」並のうさぎの手。
  おい、シマコもちったーやれよ、な。

  そうそう、親分は行ったり来たり、いつもの通り
  うさこの応援団長であった。

追記:沙羅樹、伊呂波紅葉、夏櫨(ナツハゼ)もありました!
  
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昭和な日々、ビューティフル

2009-03-06 00:05:31 | Weblog
   地方のある町で、あまりにレトロな垂涎ものの看板を発見して
   しばし佇んでしまった。
   地元の人はなぜ写真を撮るのかといぶかしげだ。
   道路の真ん中に立ち止まっているうさこを、離れたところで村人1号が
   怪しんで立っている。
   誰も通っていない道、車も来なかった。
   シャッター数回切って、スタコラ走ってその場を離れたのであった。
   案内の地元の人から、なんであんなものがと聞かれたので、
   ビューティフル! と外人みたいに答えておいた。  



   昭和が遠くなっていく今日、アンティークショップか昭和を売りにした
   テーマパークみたいな場所ならあるが、どこか寄せ集めの作りもの的な
   感じが否めない。

   ほんもの、リアルはちょっと存在感が違うと思った。
   現にいま、そこで人が暮らしているからだろう。
   息をしているからだろう。
   時を刻み続けて、役に立ちつづけて、まだ過去になどなっていないのだ。
   タイムスリップしたみたい、そう思っているコチラ側が
   もしかしたら異次元にいたりして。
   境界線をまたいだとたんに、生き返るような気もする。

   古いとか新しいとかの、境界線。
   このごろ富みに自分を古いと思う。
   古いのが新しいのだ、という気がしている。
   びゅん~
 
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ミーハー卒、うさこと親分

2009-03-05 02:07:36 | Weblog
   99年の写真なので、親分はりっぱな成犬にみえるけどまだまだ子どもで
   たぶん1歳半くらいの頃。
   まだ建物も最初の一棟が建ったくらいで、伐採と造成ばかりの日々だった。
   後ろのキャンプファイヤーみたいな焚き火、刈り取った篠竹や薮の枯枝や
   掘り起こした根を燃やし、ついでに暖をとる一石二鳥なわけ。
   そして灰は土壌改良に使えたので、三鳥だー
   (あれもこれもカメの考えたことである、もちろん)。

   ホーキンスを履いているミーハーなうさこ、流行を意識していた証拠がこんな
   ところに残っているなあ。
   山ん中で誰にみせるわけでもないのだが、あれこれと探してきてはカッコから
   入るってことで、最初はそれも楽しいのであった。
   それもじき履き古してしまい、その後はいつのまにかゴム長靴が取って代わり、
   その後は数足ゴム長靴ばかり買っている。
   オサレなゴム長靴も買ったよ、ネットショップでみつけて衝動買いした。
   でも中国製なのか、つま先の接着部分の隙間から水がしみ入るので、オサレ
   ゴム長靴よりも、ホームセンターでみつけたカーキ色の
   「雪でもだいじょう本格派ゴム長靴」が結局、一年中活躍している。



   年中アウトドアな田舎暮らし、山暮らしなわけで、この先もずっとこれが続く
   と思うと、流行がどうかより実用的かどうかが重要で、さっぱりきっぱりと
   カーキのズボンとカーキの長靴で過ごす。
   そういう生活をしているから、東京へ行ってもショッピングにとんと縁が
   なくなった。
   仕事着もスーツが数着あれば足りるので、もう数年間、新調していないし
   古いものを捨てていくだけ、そういう歳月が当分続くのだろう。
   それは若い頃のうさこからは思っても見ないことで、なんだかちょっと嬉しい。
   いわゆる「お洋服好き」で「おフレンチ」だったうさこは、ときどきそんな
   自分に辟易しないでもなかったから。

   それにしても親分の服は10年以上生きてきて、ほんの4着。
   その中に今使っているレインウエアも入っているので、実質3着。
   なんと経済的人(犬)生!ブラボー毛皮人(犬)生!
   成長するたびに替えた首輪とリードのほとんどは雑誌のモデル犬をしたご褒美の
   もらい物で、君はほんとに親孝行だなあ‥、大飯喰らいもちょっと減ったし‥‥。

   今年の6月、誕生日には何をあげようかなあ。
 

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さぶいなあ‥

2009-03-03 23:50:47 | Weblog


   ふたつの雪景色、どちらがより寒そう?
   どっちもさぶいなあ‥、でも森の家のほうが、まださぶくてもプラス楽しさが
   あるなあ。
   親分はすっごくはりきります。雪の朝のテンション、あんよは大丈夫すか?と
   心配するおっかあをふりきってゴンゴン走りだします。
   見てるだけで低血圧がだんだんと上がりセロトニンが効いてきます。

   東京で見る雪はこれが最後ねと~、とまた歌った人がいることでしょう。
   田舎モノの集合場所なのに、路面凍結に慣れていない人が多いのはなぜ?
   油断するからでしょうかね、アスファルトはぬかるまないから。

   ハイヒールのブーツ履いてる女性がけっこういますから、アホちゃうかと
   思いますが、アキレス腱が強いことをアピールしてるのかもしれんので
   見ないふり見ないふり、転んでも見ないふり(じゃなくて助ける、です)

   アホな話を羅列しているのは、さぶいからなんですよ~。
   この場合は、ふところがさぶい?
   それとも、こころがさぶい? 
   んじゃ、あたまかい?

   はい、正解はふところでした。
   車の修理代が結局、どかーんとかかりました! とほほほ。
   それから、ちょっと寂しいこともあったしなあ‥‥。

   ヘラヘラしてる親分を横目に、目を閉じて宙に飛んであったまるべか!
  
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無邪気なほどにハナが利く

2009-03-03 00:32:40 | Weblog
       (親分は犬神さま、日々、無邪気に活躍している)

  無邪気、というと可愛い意味で使われたりするが、可愛くても邪気が
  ひそんでいる時もある。
  実はそのほうが多い。
  逆に醜くて邪気があれば、鬼かと思ってしまう。
  でも鬼の面の裏に邪気があるとは限らない。
  だが、そのことを知る人は少ない。

  天の邪鬼の親分格の、天魔雄命(アメノザコオノミコト)、そのまた
  親の天逆毎媛尊(アメノザコヒメノミコト)は、たしかに姿も為すことも
  醜い。しかしこれらの邪気は簡単には見えない。
  災いを為し、被害を被ってからわかるのである。

  三種の神器の鏡。
  相対する人を鏡にたとえることもある。
  鏡には何が映っているだろうか。
  鏡を見るには力がいる。
  どういう力かというと、それは善の心であり、清らかさであり澄んでいなければ
  映らないし、つまり見えない。見る方も見られる方も問われる。
  だから自らが穢れていれば、毛頭、鏡などみないわけで、
  となると己の邪気には気づかない。
  オレ様は正しい、と盗人にも三分の理である。

  己に巣食う邪気に気づかず、可愛いこぶりっこ、いい人ぶりっこする(女に限らず)。
  ただし、この邪気がカンタンにあらわになることがある。
  それは善に相対したときだ。
  とたんに可愛い仮面ははげ落ちて、鬼の形相に変わる。

  鬼に変わった己に気づかないが、相手が逃げ出すので対決できない。
  善に向かい合えるのは、善でしかない。
  悪はへ理屈をこねて、逃げを打つ。
  現実には善の方が逃げているように見えるのだが、これは逃げるのではなく
  避けているのである。
  君子危うしに近寄らず。

  ハナが利くとはつまり、内なる鏡を磨いていることである。

 

  天は平等に計らっている。
  うさぎは弱いが、鼻が利く。逃げ足は早いし‥‥ビュン。
  長ーい耳は、忍び寄る気配にも敏感。
  たとえムシャムシャ饅頭食ってるからといって、気づいていないわけではない。
  (ただ、カメが助けにくるだろうくらい思ってるフシはあるな、確かに)
  弱くても、穢れなければ、生きて行けるよ、ビュン。 

                ※ふるごと更新しました。 
  
  
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寒桜と牡丹雪

2009-03-01 11:07:35 | Weblog

  東京で降る雪はこれで最後ねと~とつい歌ってしまった先日の雪の日。
  事務所の窓からマンションの庭にある寒桜を見下ろして、雪と寒桜。
  寒いなか、きりりと咲いてて、50代半ばから奮起する女の人って感じ。

  そういう素敵な方、白洲正子、須賀敦子、みんなそうです。
  須賀さんはヒヤシンスがお好きだったようで、寒桜はどうだったでしょうか。
  白洲さんはたぶん、一太刀にて、これじゃ甘いわ、と言われそうです。

  雪はやはり、山の家で見たほうが気持ちいい。
  東京の雪は侘びしい。

  本日、多忙につきこのへんで。

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