心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

十五夜能を楽しむ

2016-09-05 10:37:26 | Weblog

 おととい、大槻能楽堂の「十五夜能」を観てきました。7月の「ろうそく能」に続いてのご鑑賞でありました。
 狂言「瓜盗人」は、瓜畑の主が盗人を懲らしめようと瓜畑に案山子を置くが効果なく、自らが案山子に扮して盗人が現れたところで懲らしめるというお話しでした。畑主と盗人との駆け引きが会場に笑いを誘います。能楽鑑賞歴の浅い私も、最近やっと狂言の楽しさが判るようになりました。
 能「小督(こごう)」のシナリオは、ざっとこんな流れです。
 小督は宮中第一の美人で琴の名手。あるとき、高倉帝の眼にとまり寵愛を受ける。しかし帝には平清盛の娘徳子が中宮として入っている。清盛にとって小督は娘の恋敵であり、自分の野望の障害物でもあり、小督をなき者にしようと企てる。身の危険を感じた小督は、嵯峨野の里に身を隠してしまう。それを知った帝は嘆き悲しみ、源仲国に小督の捜索を依頼する。仲国が馬を駆って渡月橋のあたりまでさしかかると、妙なる琴の音が聞こえてくる。それは帝を偲んで小督が弾く「想夫恋」の曲だった。小督の奏でる琴の音を頼りに、嵯峨野の隠家を探し当てる。小督は会うことを拒んだが、侍女の取り成しで仲国を招き入れ、帝の文を受け取る。その深い情に感涙し、小督もまた恋慕の思いをしたためて仲国に託す。そして名残の宴を開き、都へ帰っていく仲国を見送る。
 これは平家物語の巻第六「仲国、想夫恋を奏でる小督を嵯峨に発見」に登場するくだりですが、源氏と平氏が争い鎌倉幕府が誕生する時代に、こんなメロドラマがあり、それが長く語り継がれてきたことに、繊細な日本文化の真髄を見る思いがします。
 能楽堂内に一瞬の静寂が走ったところで、左手の揚幕があいて笛、鼓など囃子方の方々が、右手の切戸口からは地謡の方々が入場します。体制が整ったところで揚幕があき、鎌倉時代の装束を身にまとった高倉帝の臣下(ワキ)が現れ、次いで源仲国が登場します。
 と、ここで場面が変わります。といっても大劇場のように大がかりな舞台展開があるわけではありません。舞台中央に極めて質素な片折戸の門と柴垣が置かれ、それが嵯峨野の場面ということになります。1時間半の中で舞台の展開はこれだけです。あとは囃子と謡と数名のシテ方、ワキ方によって能は進みます。シテ方、ワキ方ともに当時の衣装を身にまとい、床に足裏をつけたまま静かに移動する姿は、まさに絵巻を観ているようです。そこに能面をつけた小督の局と侍女が登場すると、華やいだ場面になりますが、小督の繊細な心の在り様が舞台全体に伝わってきます。お能のせりふは文語体なので理解に難儀します。最近になって部分的ではありますが、言葉の端々が判るようになりました。
 免疫学の世界的な権威にして能楽に造詣の深い多田富雄先生は、「能は基本的には演劇であるが、そこにはダンス(舞)も含まれ、歌(謡)が歌われる。オペラやバレエを見るのと同じである」とおっしゃいます。でも、能楽は、単純化され、きわめて抽象化された演劇であって、謡のすべてを理解するというよりも、「時間」を超越した非現実の世界に身を置くことによって、ひしひしと迫ってくるものを見逃さない。そんな鑑賞力が試されているように思えます。 
 張り詰めた空間を突き刺すような横笛の音色、凛とした鼓の音と奏者の掛け声、これがオーケストラなら、十数名の謡の方々はさしずめ合唱団といったところでしょうか。オペラと違うのは、主役の演者が能面を被っていること。不思議なことに、その能面が一瞬泣いたり笑ったり怒ったりするように見える瞬間があります。バレエと違うのは、演者の動き。ステージ所狭しと踊るバレエと違い、能の動きは、荒れ狂う舞もないではありませんが、基本的に「静」の世界です。

 この日、隣の席にお座りの和服を着た86歳のお婆さんは、わざわざ堺市から電車に乗ってやってきたのだそうです。40年来お能のファンで、ご夫婦そろって謡を習っていらっしゃるとか。「お能は奥が深くて、まだまだです」と謙遜していらっしゃいましたが、「あまり難しく考えないで全身で楽しんでください」とアドバイスをいただきました。妙に納得してしまいました。
 この日は、公募写真展「能の見える風景」の入賞者受賞式が行われ、作品がロビーに展示されていました。金賞の方には、この日の十五夜能の撮影権が与えられました。
 運よく台風12号が日本海に行ってしまいました。明日は能楽と同時代から続く四国八十八カ所遍路の旅に出かけてきます。

※平家物語の絵巻の写真は、古本まつりで見つけた別冊太陽「平家物語絵巻」から拝借しました。

 

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