つい数週間前まで暑い暑いと言っていたのに、9月に入ると秋の到来、街の景色もがらりと変わります。都会地に点在する田圃も、稲穂が垂れて刈り取りの季節を迎えました。そんな季節の変わり目が私は大好きです。 今月の家内のお花のテーマは「お月見」でした。小さい頃は、母がお団子をつくってくれて、縁側でみんなでお月見をしたものですが、今はそんな風流なことはできません。でもことしは「中秋の名月」の9月15日、淀川河川公園で開かれた「千人の月見の宴」にでかけました。広い河川敷の特設ステージで、薪能「天鼓」、タンゴの演奏など盛りだくさんのプログラムを楽しみました。
ちなみに特設ステージは強化ダンボール製。まだ開発途上のようですが、壇上で飛び跳ねてもびくともしない舞台でした。
薪能の演目「天鼓(てんこ)」について、パンフレットにはつぎのように記されています。「空から降り下った不思議な鼓を打ち鳴らす少年、天鼓。妙なる音色を欲しがった皇帝の命に背いた少年は処刑されてしまう。手に入れた鼓は、皇帝が名人に打たせても鳴らず、天鼓の父親を引き出して打たせると、美しい音色が響き渡る。これに感じ、後悔した皇帝が手厚く弔うと、天鼓の霊が現れ、月下に鼓を打ち鳴らし喜び舞う。やがて夜明けとともに消え失せる」と。「名作能50」によれば、後段はこうなります。「初秋の風吹きすぎる夕刻、川面を管弦の音が満たすと、その音に惹かれるように天鼓の霊は現れる。嬉々として鼓を打ち、天真に任せて舞い遊び、愛器との再びの蜜月を心ゆくまで味わった天鼓の霊。しかし夜明けと共にそれはまた幻のように消えていく」と。
都会地のことですから、満天の星空というわけにはいきませんが、かつて土佐日記で紀貫之が船を京の都に進めた淀川べりで、薪に照らされて老父王伯と天鼓の霊が舞う幻想的な世界が広がります。スピーカーを使っているとはいえ、天まで届くかのような謡いと囃子が薄暗闇の中に響きわたりました。照明器具のなかった昔は、薪か蝋燭でしか照らすことができなかったわけですから、能楽の原点を垣間見た思いがいたしました。撮影厳禁のためその模様をお伝えできないのが残念です。
能楽の起源は室町時代に遡ります。小さい頃お祭りのときに恐る恐る見ていた神楽に近いものを感じます。この日は前段で、地元の神社の宮司さんによる火入れ式「川への祈り」もありました。その祝詞の言葉も、神楽、能に近しいものでした。
いま読んでいる「ブッダの夢」は、著名な臨床心理学者・河合隼雄先生と異色の宗教学者・中沢新一先生との対談を文字にしたものですが、「仏教と癒し」の中でお二人は、日本人の宗教性、支柱を失った日本を問い、死の世界から現在を見るという論調に進んでいきます。なにか日本人が置き忘れてきたものを提起しようとされているように思います。
四国遍路をきっかけに宗教というものと対峙するようになって、最近は臨床心理学の視点から人の心の在り様を考えるようにもなって、なんだか雲をつかむような状態が続いています。戦後の非宗教教育を受けて育った世代の私にとって、ひとつのけじめをつけたいという思いもあります。 「千人の月見の宴」はこの後、がらりと雰囲気を変えて、ブエノス・アイレスの雰囲気漂うタンゴの世界へと誘います。柴田奈穂さん率いるLAST TANGOがご登場でした。タンゴの音楽を聴く機会は滅多にありませんが、ブエノス・アイレスといえばピアニストのマルタ・アルゲリッチが生まれたアルゼンチンの都市。クラシックとは違った、小気味良いタンゴのリズムを楽しみました。この日は、タンゴの時間になってやっとお月さまがご登場でした。
さて、きょうはリストの「巡礼の年」をラザール・ベルマンのピアノで聴きながらブログを更新しました。来週後半は九州に出かける予定ですが、台風16号の動きが気になるところです。運を天にまかせるしかありませんね。