娘が学校の作文の授業で、自分の子どもの頃(今もバリバリの子どもだが)の
写真が要るというので、押し入れから生まれた頃のアルバムを引っ張り出してきた。
生まれて2日目の写真から始まるアルバム。
ページをめくるごとに、娘の時間が進む。
1999年8月26日から少しずつ少しずつ、“今”に近づいてゆく。
最初の数ページは、ほぼ毎日ごとの写真が貼ってあるが、
ページが進むに連れて、1週間ごとになり、2週間ごとになり、
1ヶ月ごとになり・・・。
アルバムによっては、前ページではハイハイしてたのに、
次のページではヨチヨチ歩いていたりする(笑)
そんなアルバムの中から、娘は1枚の写真を選んだ。
それは、娘自身が1歳半頃の写真だった。
当時住んでいた借家のすぐ近くにあった神社の参道で撮った1枚だ。
神社にはよく散歩に行った。
丘陵の上に鎮座していたので、参道は長い登り坂だった。
当時、ようやく娘は一人で歩くことにも慣れはじめた頃で、この日も
娘と一緒に神社へ散歩に出かけたのだろう。
しかし、いつもならば手を握って一緒に歩いて登った参道を、
この日、娘は一人で登って上がった。
この写真は、その最後の一段を登りつめた瞬間を撮ったものだ。
大袈裟かもしれないけど、言わばこの日が、娘とって最初の独立記念日
だったのかもしれない。
ちなみに、写真を撮った人間は僕ではない。
今は亡き義父、つまり妻の父だ。
義父は、本当に写真を撮るのが上手かった。
特に孫の絶妙なショットを撮るのは、親の僕らでも敵わなかった(笑)
別に、カメラが趣味だったわけではないし、ましてカメラマンだったわけでもない。
この写真も、もちろんデジカメではなく、おそらくアナログのカメラでもない。
あの、今や絶滅寸前の“写るんです”とか、そういったコンパクトカメラの類いのはずだ。
それでも、こんな写真を撮ってしまう義父には脱帽してしまう。
なぜ、こんな写真が撮れてしまうのか?
手垢のついた表現しかできないが、きっとそれは“愛情”以外の何ものでもなかったのだろう。
季節は、春だった。
幼い娘の後ろで桜が咲いている。
今年も、もうすぐ、春が来る。
写真が要るというので、押し入れから生まれた頃のアルバムを引っ張り出してきた。
生まれて2日目の写真から始まるアルバム。
ページをめくるごとに、娘の時間が進む。
1999年8月26日から少しずつ少しずつ、“今”に近づいてゆく。
最初の数ページは、ほぼ毎日ごとの写真が貼ってあるが、
ページが進むに連れて、1週間ごとになり、2週間ごとになり、
1ヶ月ごとになり・・・。
アルバムによっては、前ページではハイハイしてたのに、
次のページではヨチヨチ歩いていたりする(笑)
そんなアルバムの中から、娘は1枚の写真を選んだ。
それは、娘自身が1歳半頃の写真だった。
当時住んでいた借家のすぐ近くにあった神社の参道で撮った1枚だ。
神社にはよく散歩に行った。
丘陵の上に鎮座していたので、参道は長い登り坂だった。
当時、ようやく娘は一人で歩くことにも慣れはじめた頃で、この日も
娘と一緒に神社へ散歩に出かけたのだろう。
しかし、いつもならば手を握って一緒に歩いて登った参道を、
この日、娘は一人で登って上がった。
この写真は、その最後の一段を登りつめた瞬間を撮ったものだ。
大袈裟かもしれないけど、言わばこの日が、娘とって最初の独立記念日
だったのかもしれない。
ちなみに、写真を撮った人間は僕ではない。
今は亡き義父、つまり妻の父だ。
義父は、本当に写真を撮るのが上手かった。
特に孫の絶妙なショットを撮るのは、親の僕らでも敵わなかった(笑)
別に、カメラが趣味だったわけではないし、ましてカメラマンだったわけでもない。
この写真も、もちろんデジカメではなく、おそらくアナログのカメラでもない。
あの、今や絶滅寸前の“写るんです”とか、そういったコンパクトカメラの類いのはずだ。
それでも、こんな写真を撮ってしまう義父には脱帽してしまう。
なぜ、こんな写真が撮れてしまうのか?
手垢のついた表現しかできないが、きっとそれは“愛情”以外の何ものでもなかったのだろう。
季節は、春だった。
幼い娘の後ろで桜が咲いている。
今年も、もうすぐ、春が来る。