歯を、磨いていた。
洗面所の鏡の中には、いつもの顔。
俺の顔。
45歳の、俺の顔。
20歳の頃に比べれば老けたが、60歳よりは若く見える。
そんな禅問答にもならないような偏差値の低いことをぼんやりと考えながら歯を磨いていたのだが、鏡の中の自身を見て、気づいた。
俺、歯ブラシを、持っていない。
鏡の中の俺は、左手の人差し指で直接歯を磨いていた。
しかもよく見ると、口の中で泡立っている歯磨き粉の泡が、いつもと違う。
やけに、茶色い。
血か?
すぐに、そう直感した。
知らないうちに口内炎が出来たか。
それとも、歯茎のどこかから出血してんのか。どちらにしても、やっぱりもう、俺は20歳よりは60歳が近いってことか。
俺は血の出処を特定しようと、舌を探知機のように口腔内で動かしてみた。
すると前歯を覆っていた歯磨き粉の泡に舌先が触れ、その瞬間、泡の味覚が舌全体に伝わった。
「にがっ!」
思わず、声を上げてしまった。
苦い。
血を舐めると鉄の味がするというが、そんな味ではなかった。
不味いとかそんなレベルではない。
食べてはいけないモノを口にした時の味というのだろうか、まるで味自体が警告を発しているような、本能的に生命の危険を感じるような苦さだった。
まさか・・・これ、まさか、毒じゃないだろうな?
俺はそのままこうべを垂れて、焦り気味に洗面に口の中の泡をすべて吐き出そうとした。
だが、ペッペッという虚しい音が洗面所に響くだけで、苦く茶色い泡は、ほとんど口から落ちはしなかった。
「驚いたか?」
頭上からそんな声が聞こえた。
反射的に、顔を上げた。
だが、そこには誰もいない。
目の前には、鏡に映った45歳の俺の顔。
「苦いか?」
また、声が聞こえた。
しかし、今度は、その声の出どころが分かった。
声は、俺の目の前・・・つまり、鏡から聞こえてきていた。
最初は、鏡の中の俺が話しているのかと思った。
安いホラー映画でもあるまいし。
だが、どうやらそうではないらしい。
試しに、動いてみた。
俺が右を向けば、鏡の中の俺も右を向く。
俺が左を向けば、鏡の中の俺も左を向く。
うん、大丈夫。
鏡の中のこいつは、いつも素直で従順だ。
「それが何か、分かるか?」
再び、声が聞こえた。
大の男が悲鳴をあげて逃げてもおかしくないような恐ろしく異常な状況のはずなのに、なぜか俺は冷静だった。
その声の出どころを特定しようと、鏡を凝視した。
すると、鏡の中の従順な俺も、鏡の外の俺を凝視した。
「私は、鏡だ」
声を主は、呆気なく正体をばらした。
「もう一度、歯を磨いてみろ」
鏡は、そう続けた。
「指で、磨いてみろ」
しかも、念押しもしてきた。
不快を通り越して正気を失いかねないほどの苦さを知ってしまったはずなのに、俺はその言葉になぜか素直に従い、左手の人差し指を前歯に当てた。
鏡の中の俺も、やはり素直に左手の人差し指を前歯に当てている。
指を上下させる。
右側の上の歯、下の歯、奥歯・・・と順番に磨いてゆくと、案の定、また茶色い泡が口の中で生まれはじめた。
舌は泡に触れないように口腔の奥で丸めている。
せめて、あのデタラメな苦さを味あわなければ。
伊達に40数年も生きてねぇぞ。
俺は、20歳そこらの若僧とは違う。
学習能力があるのだ。
そうやって指で歯を磨いていたら、鏡の中の俺の口元から、ポロポロと何がこぼれ落ちているのに気づいた。
泡ではなくて、褐色のチョコレートの欠片のような、見方によっては長年こびり付いた錆の欠片のようにも見える。
俺は歯磨きの指を止め、鏡を覗き込んだ。
「それが、何か分かるか?」
俺は首を振った。
「それは、お前の“過去”だ」
鏡は、そう答えた。
俺は、再び指を動かしはじめた。
最初はゆっくりだったが、鏡の中の俺の口元からポロポロとこぼれる“過去”が増えるに連れて、次第にその動きは速くなりはじめ、最後には目にも止まらぬ速さにまでなってしまった。
どうする?どうするよ?止まらないぞ、止めようと思っても指が止まらないぞ、このままじゃ、過去が全部無くなっちまう、それでいいのかよ、ヤバい、マジでヤバいぞ・・・・・そんなふうに焦りが極地に至った瞬間、口腔の奥でおとなしくしていた舌先が、不意に動いて、上顎を覆っていた泡に触れた。
「にがっ!」
・・・・・・これが、夕べ見た夢です。
何かを暗示しているのでしょうか?
洗面所の鏡の中には、いつもの顔。
俺の顔。
45歳の、俺の顔。
20歳の頃に比べれば老けたが、60歳よりは若く見える。
そんな禅問答にもならないような偏差値の低いことをぼんやりと考えながら歯を磨いていたのだが、鏡の中の自身を見て、気づいた。
俺、歯ブラシを、持っていない。
鏡の中の俺は、左手の人差し指で直接歯を磨いていた。
しかもよく見ると、口の中で泡立っている歯磨き粉の泡が、いつもと違う。
やけに、茶色い。
血か?
すぐに、そう直感した。
知らないうちに口内炎が出来たか。
それとも、歯茎のどこかから出血してんのか。どちらにしても、やっぱりもう、俺は20歳よりは60歳が近いってことか。
俺は血の出処を特定しようと、舌を探知機のように口腔内で動かしてみた。
すると前歯を覆っていた歯磨き粉の泡に舌先が触れ、その瞬間、泡の味覚が舌全体に伝わった。
「にがっ!」
思わず、声を上げてしまった。
苦い。
血を舐めると鉄の味がするというが、そんな味ではなかった。
不味いとかそんなレベルではない。
食べてはいけないモノを口にした時の味というのだろうか、まるで味自体が警告を発しているような、本能的に生命の危険を感じるような苦さだった。
まさか・・・これ、まさか、毒じゃないだろうな?
俺はそのままこうべを垂れて、焦り気味に洗面に口の中の泡をすべて吐き出そうとした。
だが、ペッペッという虚しい音が洗面所に響くだけで、苦く茶色い泡は、ほとんど口から落ちはしなかった。
「驚いたか?」
頭上からそんな声が聞こえた。
反射的に、顔を上げた。
だが、そこには誰もいない。
目の前には、鏡に映った45歳の俺の顔。
「苦いか?」
また、声が聞こえた。
しかし、今度は、その声の出どころが分かった。
声は、俺の目の前・・・つまり、鏡から聞こえてきていた。
最初は、鏡の中の俺が話しているのかと思った。
安いホラー映画でもあるまいし。
だが、どうやらそうではないらしい。
試しに、動いてみた。
俺が右を向けば、鏡の中の俺も右を向く。
俺が左を向けば、鏡の中の俺も左を向く。
うん、大丈夫。
鏡の中のこいつは、いつも素直で従順だ。
「それが何か、分かるか?」
再び、声が聞こえた。
大の男が悲鳴をあげて逃げてもおかしくないような恐ろしく異常な状況のはずなのに、なぜか俺は冷静だった。
その声の出どころを特定しようと、鏡を凝視した。
すると、鏡の中の従順な俺も、鏡の外の俺を凝視した。
「私は、鏡だ」
声を主は、呆気なく正体をばらした。
「もう一度、歯を磨いてみろ」
鏡は、そう続けた。
「指で、磨いてみろ」
しかも、念押しもしてきた。
不快を通り越して正気を失いかねないほどの苦さを知ってしまったはずなのに、俺はその言葉になぜか素直に従い、左手の人差し指を前歯に当てた。
鏡の中の俺も、やはり素直に左手の人差し指を前歯に当てている。
指を上下させる。
右側の上の歯、下の歯、奥歯・・・と順番に磨いてゆくと、案の定、また茶色い泡が口の中で生まれはじめた。
舌は泡に触れないように口腔の奥で丸めている。
せめて、あのデタラメな苦さを味あわなければ。
伊達に40数年も生きてねぇぞ。
俺は、20歳そこらの若僧とは違う。
学習能力があるのだ。
そうやって指で歯を磨いていたら、鏡の中の俺の口元から、ポロポロと何がこぼれ落ちているのに気づいた。
泡ではなくて、褐色のチョコレートの欠片のような、見方によっては長年こびり付いた錆の欠片のようにも見える。
俺は歯磨きの指を止め、鏡を覗き込んだ。
「それが、何か分かるか?」
俺は首を振った。
「それは、お前の“過去”だ」
鏡は、そう答えた。
俺は、再び指を動かしはじめた。
最初はゆっくりだったが、鏡の中の俺の口元からポロポロとこぼれる“過去”が増えるに連れて、次第にその動きは速くなりはじめ、最後には目にも止まらぬ速さにまでなってしまった。
どうする?どうするよ?止まらないぞ、止めようと思っても指が止まらないぞ、このままじゃ、過去が全部無くなっちまう、それでいいのかよ、ヤバい、マジでヤバいぞ・・・・・そんなふうに焦りが極地に至った瞬間、口腔の奥でおとなしくしていた舌先が、不意に動いて、上顎を覆っていた泡に触れた。
「にがっ!」
・・・・・・これが、夕べ見た夢です。
何かを暗示しているのでしょうか?