林檎乃「とほほ・・・。」ブログ

林檎乃麗の「とほほ・・・。」な日常を綴っています。 

九州完乗の旅再び31

2023-11-13 | 鉄道・旅行

 31.長崎平和公園見学-世界平和と再びの核の脅威

赤迫電停で約25分の車両取材をして、
ここから始発の1号系統崇福寺行きに乗り込み、
平和公園電停まで行く。
ここで下車して長崎平和公園に行く。

訪問の目的はトイレを借りるためだったが、
折角ここまで来たので平和公園を散策することにした。
公園内にはたぶん修学旅行なのだろう、
小学生や中学生の集団がガイドの説明に聞き入っていた。

平和公園には世界各国から平和祈念の像が送られていた。
この像はソヴィエト社会主義共和国連邦から送られたもので、
ロシア語と日本語で解説が書かれている。

  この像は、ソヴィエト社会主義共和国連邦から
 長崎市が計画している「世界平和シンボルゾーン」建設の
 趣旨に賛同し寄贈された平和の像です。
  母親が子供を抱いた姿で、
 愛とともに平和を表現しています。
                1985年6月

ソ連が崩壊し、その中核であったロシア連邦が、
今はウクライナに侵攻し、戦闘は膠着、
その打開策として“使える核”が論議されている。

・・・使える核って何だよ!
ソ連時代にここに平和の像を寄贈した時のことを思い出せよ!
長崎を人類最後の被爆地にするため、
人類は愚かな行為を反省し続けなければならないのだ。

平和公園は長崎刑務所浦上支所の跡地にあり、
ここは正確には爆心地ではないものの、
爆心地にもっとも近い公共の建物であった。
1945年8月9日午前11時2分、
プルトニウム型原子爆弾により、
職員、官舎居住者、収容者計134名は全員即死した。
木造庁舎はもちろんのこと、
鉄筋コンクリートの壁も根元から倒壊した。

更に進んでいくとテレビなどでもよく見る平和祈念像が見えてきた。
説明文には以下のように書かれている。

   平和祈念像建立のことば

  昭和二十年八月九日午前十一時二分、
 一発の原子爆弾が、この地上空ででさく裂し、
 方五粁一帯を廃きょと化し、
 死者七万三千余、傷者また七万六千余におよんだ。
  哀愁悲憤の思いは、今もなお胸を裂くものがある。
  私ども生き残った市民は、被爆諸霊の冥福を祈り、
 かつ、この惨禍が再び地上にくり返されることを防ぐために、
 自ら起って、世界恒久平和の使徒となることを決意し、
 その象徴として、この丘に、平和祈念像の建立を発願した。
  かくて、私たちは、平和祈念像建設協賛会を組織し、
 内外の熱烈な協賛のもとに、昭和二十六年春、
 工を起してより、ここに四年、念願の像を完成し、
 除幕の式を挙げた。
  この日原爆十周年の日の前日である。
  私は、三十万市民とともに、この平和祈念像が、万人に仰がれ、
 世界平和の保持に大きな貢献をなすものと信ずる。

          昭和三十年八月八日
               長崎市長  田川 務

長崎平和公園を見学し、再び平和公園電停に戻る。
戻ってから気付いたのだけれど、
ここも車両取材しやすい電停なので、
ここで暫く車両取材することにした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする