rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

東北関東大震災、広範囲の災害がもたらすもの

2011-03-15 01:14:55 | つぶやき&ぼやき
3月11日金曜日午後2時45分、最初は緩やかに横揺れが始まった。
だんだん揺れが強くなって、何処か遠くで大きな地震が発生したのかしらと、目の前の石油ストーブに注意しながら考えていた。
連れは強くなる一方で、ストーブを消し、避難路確保のためガラス戸を開けた。
上から瓦が降ってくる気配に気を配りながら庭に踏み出す。
二階にいる家人が心配で振り返ってみると、二階の窓から屋根の上に出て身構えていた。
母屋の両親が気がかりで、一向に収まらず大きく揺れ動く地面を踏みしめ、母屋に向かい玄関のドアを開けた。
両親の気配がしなく、どうしたのかと思っているうちに、一回目の揺れがようやく収まった。
両親は、勝手口から外へ出たらしい、無傷でよかったと喜びも束の間、次の揺れが来た。
建物も木々も大地も、空までもが揺れ動いていた。
揺れが収まりかけたと思えまもなく、次の揺れに移行する。
とにかく、20分くらい、それ以上、揺れが次々に襲ってきた。
そのとき、雷もなった。
そんな雲が見えなかったのにもかかわらずに。

ひとまず大きな揺れが落ち着いてから、火の元の確認をする。
それと同時に、被害状況の把握。

まだ下校時間になっていなかったが、家人は子供たちを迎えにいった。
途中の道は、亀裂が入り、段差ができ、学校手前では、自動車が通れないくらい道路が変形していたという。
ようやく帰ってきた子供たち、特に小さい人は地震の恐怖に泣きじゃくっていた。

地震発生直後から、停電になった。
携帯電話は途端に不通になるし、固定電話も通じない状況に、事態の重さと親族の安否がつかめない不安が襲ってきた。
何度も試すが、何の応答もない。
メールだけは遅れるようなので、自分たちの無事を知らせ、相手の安否を尋ねた。
たちまち返信が来るのもあれば、一向にに来ないものもあり、苛立ちを抑えられない。
情報を得る手段は、携帯ラジオと防災無線のみ。

余震の続く不安な夜を迎える準備にとりかかる。
割れたガラスの除去、食料・飲み物を家中からかき集め、懐中電灯・蝋燭などの明かりの用意、一番安全な場所を選び暖を取るための毛布類を持ち運んだ。
食事は、咽喉を通らない。
いつまでこの状況が続くのか分からないため、とにかくみんなで横になり体力温存。

数分後とにやってくる余震に、気持ちの張が取れない。
暗闇が、不安と恐怖を助長する。
窓の外がようやく白み始めてやっと、浅い眠りにつけた。

翌朝、水道と電気の復旧は見通し立たないと、防災無線の放送が入る。
都市ガスではないから、当面の煮炊きに困らないが、水がないと調理できないし、トイレが困る。
8時過ぎに、給水車が給水を始めるとの放送があった。
しかし、旧町に一箇所の給水所。
遠い人は15キロくらい自動車で行かなくてはならない。
道路は壊れているし、この状態だとガソリンの備蓄もすぐ底をつくだろう。
それでも、水がないと二進も三進もいかないから、仕方がなく向かい、3時間以上まって水を確保した。

それでも、我が家はとても幸運なことに、ほとんど被害を受けなかった。
すぐ近くでは、液状化現象によって、家屋が傾き、屋根瓦が崩れ落ち、ところによっては、駐車していた自動車が地面に沈下して嵌り込んだ場合もあった。
地理的にも平坦で、いささか過疎気味であるから、被害は他に及ぶことはない。
東北の津波被害に比べれば、たいした被害にあったわけではない。
しかし、忘れられた被災地として、二次被害の危険性を孕んでいそうな気がする。

ガソリンと電気・水・食料が多少なりとも安定供給を受けられたなら、早期の復興で、東北各県の被害の大きかったところを支援できる基地局になる可能性がある。
平坦で、安定した天候、まだ何とか持ち直せるかもしれない休耕地、被災者の受け入れ、生活支援と自立を応援できるところの茨城県の活用方法があるのではないかと、考える。

それから、原発。
地震国日本では、難しすぎる施設であろう。
ちなみに、ベルギーの首都ブリュッセルのすぐ近くに原発の施設が聳え立っていた。
国土が狭いうえ平地というと建設地の選びようがなかったにせよ、随分と驚いたことだった。
ずば抜けにリスキーだが、高い発電能力を持った原子力発電。
電気の依存度が鰻上りに高くなる、この文明社会。
それを天秤にかけると、本当に釣り合うのかと、誰もが納得するのかと問い直されている状況下だ。
福島原発は、もう使い物にならなくなるとすれば、これを補う電力をどう作り供給するのだろうか。
それとも、福島原発分を差し引いた電力供給量内でまかなう努力をするのか、我々に突きつけられた課題は難しい。