rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

捨てられない話

2011-03-24 00:22:52 | 随想たち
自分は、物を捨てられない。
物が、「捨てないで」と訴えてくるから。

ある一時、外国に暮らしたことがある。
スーツケース一つの身の回りの品で、一年間暮らした。
家具付アパートを借りて住んだので、夏と冬の衣類3種類ずつあれば、何とか間に合う。
本で読んでいたけれど、スーツケース一つ世界を巡り暮らすのも、できないことではないし、生きていくのに必要な物なんて、ほんの少しで足りるんだと実感した。
もっと身軽になってもいいんじゃないか、いや、なるべきだ。
物に囚われて、人生を無駄に過ごしている場合じゃないと、本気で思った。

しかし、実際のところ、物に囚われ通しの有様。
安定した住居があると、物は次第に増えていく、その一途を辿る。
どうしても、捨てられない。
捨てられないから、自分のものにするものは、自ずと精査される(?)。
僅かでも、増えることに違いはない。

衣類などは、それでもまだ思い切った取捨選択ができる(一般的には、ボロといわれる程度になって)。
でも、本・食器・レコード&CD・飾り物などについては、まったく捨てることができない。
愛着が捨てる行為を阻む。
物にも、その存在を全うする権利があり(汎神論者)、それが生み出された労力を惜しむ気持ちがある。

消費社会と対極にある経済活動(あえていうならば)。
消費を身上とする資本主義社会において、逆行する行為、内気な個人的テロリスト、反社会者。

できることなら、電化製品もせめて10~15年は修理して使い切りたいし、家具類も間に合わせの簡単華奢な作りではない職人の手が生み出したものを置きたい。
人から人へ使い受け継がれる物を、大切にしたい。

そのためには、安易なデザインで作られたものは、そのチープさで飽きられ、次なる刺激を求めて簡単に捨てられてしまうから、製品の機能ばかりでなく、よく吟味した意匠を取り入れなくてはいけない。
日本製品は、機能性は良くとも、この意匠に関してはまことにお粗末な体を成している物が、なんと多いことか。
電気ポット、自動車(近頃の外国車も衝突安全性を気にするせいか、個性が均一化している)、鍋、一般家具、パソコンなどの電化製品など美しさに欠ける。

日本は、もとより意匠に関して無関心な民族ではない。
洗練された文化を築き上げてきた。
もっとも、現在の西洋化された文明器機にそぐわない意匠かもしれないが、その折衷案を見つけ出すのも大の得意とするところ。
短期間の消費サイクルから、長期間の消費サイクルへと転換を図るべく、物のデザインの感性・洗練度を再考して欲しい。

「捨てられない」人が、「捨てる」人の行為を見て、心が痛くなる。
この「捨てられない」人は、潔く「捨てる」ことが賞賛される風潮を苦々しく思う。
そこで、物の「捨てる」「捨てない」を思って、どうしたら物を長く使い続けられるかを考えた、その話がこれである。