ベアタ・ベアトリクス ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ
「ラファエロ前派展」と「シャヴァンヌ展」を観て来た。
よく晴れて穏やかな外出日和、空気はまだ冷たさを宿していて、先々週降った雪がまだ道路わきには灰色がかった塊となって居座っている。
「ラファエロ前派展」
アーサー・ヒューズの「4月の愛」ので迎えによって始まる展覧会。
まだ、開場して間もなくということで、ひどい混雑ではなかった。
やはりなんといってもミレイの「オフィーリア」の精緻で細密な描写は、ひときわ目を引く。
どこまでも入念に描きこまれたミクロコスモス的細部がモザイクのように合わさって作り上げられた絵に、自然界の命の成り立ちを見て軽い眩暈を覚える思いがした。
オフィーリアは、ここでは悲劇のヒロインではなく、たゆたう命、生々流転の象徴のようだ。
ほかに、ウィリアム・ハントやバーン・ジョーンズなどの作品がつらつら続き、濃厚なロセッティの部屋でぐっと締める。
「ベアタ・ベアトリクス」は、彼の作品でも異質ではないか。
画面処理だけでなく、構成の仕方も表面的な美への賛歌といったものではない。
個人的内面が吐露された、美への鎮魂ともいえるべきかと。
ラファエロ前派の作風は、美しいものをさらに美しく描き、直接的に意図は示さず象徴などを使って仄めかすものが多い。
ともすれば物語の挿絵に陥る危険なぎりぎりの線をいっているのだ。
しかし、「ベアタ・ベアトリクス」については、単なる美しさを超えた域に達していると思うのだ。
突き抜けた美への探求が、どれほど困難かを描いたのは、最後の部屋にあるバーン・ジョーンズの絵《「愛」に導かれる巡礼》のアレゴリー。
「シャヴァンヌ展」
シャヴァンヌは、壁画画家。
壁画という特性上、日本において現物を拝むことはできない。
その片鱗を垣間見せるべく催された展覧会は、壁画の縮小画で雰囲気を伝える。
ハーフトーンでまとめられた理想郷はどこまでも美しく非現実感を十分に湛え、「芸術家の使命は美を創造すること」のシャヴァンヌの絵画理念を見事に表す。
デッサン、習作など展示されている中にあった、「眠り」という黄昏時の情景を描いた絵があった。
描きすぎていないところが、絵の中に緩急の流れを醸し出し、見るものが安らげるものとなっていて、自分がこの展覧会での一番の収穫作品だ。
淡い色調のシャヴァンヌの作品中目を引いたのは、擬人化されたパリの姿を描いた「鳩」「気球」の2点。
モノトーンで図案化されたこの絵は、石版画で5万部刷られたらしく、ちょっと所有してみたくなった。
ラファエロ前派の諸氏、シャヴァンヌ、ひたすら美しいものを描き続けた画家。
実際に行き着くことがないアルカディア。
我々は、芸術に触れて心だけでもアルカディアに分け入れるならば、どうしてその美を甘受しないでいようか。
ならば、この美しき絵画が導く優しく甘い夢に浸り、精神に春の風を呼び込もう。
追記
一緒に展覧会をめぐった友人との話。
「ラファエロ前派展に、ウォーターハウスの絵が展示されていなくて残念。」
「『オフィーリア』という主題で、年代画風を問わずに企画した展覧会がないものか」
「アルマ=タデマなども特集して欲しい」
たぶん究極の美しいものが渇望している世相を代弁していると自負する変わり者二人の会話。
オフィーリア ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス
オフィーリア ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス