つれづれ日記

心と目の記録

五味川純平氏と4頭のピレニーズ

2023-08-01 16:33:54 | Weblog

昨日のブログに、ベルがモデルに使われた広告を載せましたが

この原宿の広告会社の人が、近くにピレニーズを4頭飼っている人がいると

教えてくれ、飼い主の名前は知らないけれどと、地図を書いてくれました。

 

早速翌日に地図にある家に行ってみると

表札に五味川純平と書いてあり、当時ベストセラーになった

「人間の条件」の作者と分かり、戸惑いましたがお尋ねしました。

二階からお玄関にピレニーズ達がパタパタと降りてきてびっくりしました。

家族と一緒で家の中で自由にして食卓の下にいたり、また

お庭に犬舎があり、土の庭を自由に走れるように何もなく

植木や花は門から玄関までの両側にありました。

 

五味川純平氏とご愛犬のピレニーズたち

 

当時犬の雑誌は「愛犬の友」と「愛犬ジャーナル」が発行されていて

私は数年前から愛犬ジャーナルにピレニーズの連載記事を書いていました。

そして愛犬ジャーナルに、五味川純平氏と私の対談が載せられました。

 

奥様のお料理はプロ並みで、私の誕生日にフランス料理のフルコースを

ご馳走してくださり身に余る楽しい時を過ごさせていただきました。

 

ピレニーズが授けてくれた、贅沢な素晴らしい思い出です。

 

 

 

 

 


私とピレニーズとの半世紀

2023-07-31 15:29:50 | Weblog

1969年に愛犬の日本犬とポインターをを亡くし

翌年のお正月、デパートの犬博で初めてピレニーズに出会い

6月に子犬を我が家に迎えてから、

私の人生はピレニーズと共に歩み始めました。

私が嫁ぐまで、犬を飼ったことのない姑と夫、3人の娘に気を使いながら、

雑誌に記事を書いたり、ドッグショーに出し、

1977年にアマチュアのピレニーズのクラブを作り、

多い時は300名以上の責任者として

37年間、有意義な楽しい日々を送りました。

 

下は我が家のベルが、伊勢丹の広告に使われました。1976年ころです。

           

 

 

 


マウスで描いた富士山

2023-07-28 18:11:34 | Weblog

 

2002年の9月に、すぐ近くのパソコン教室

下総中山駅前教室に入室し、

私の人生の中に新しい道が開けました。

パソコンは私の予想よりいろんなことができました。

2003年になり、絵が描けるようになり、

下は山中湖で写した富士山の写真を見て、2003年10月頃にマウスで描いたものです。

先日7月5日に、2003年にマウスで描いた、

私の育った家の庭の花壇の絵を載せました。

 

パソコン教室の先生が、下の富士山の絵を

お教室のブログに載せてくださりびっくり、恐縮いたしました。

感謝の気持ちをこめて、御礼申し上げます。

 

 


絵日記、小学六年、海で泳ぐ私

2023-07-25 15:50:51 | Weblog

年生の夏休みに描いた絵日記の中に

逗子の海で泳ぐ私の後ろ姿が描いてありました。

小学四年生の時、受け持ちの若い男性の石倉先生が

私たちのクラスの生徒だけに、近くの井の頭公園のプールで、

初歩からきちんと泳ぎ方を教えてくださり

水泳大好き人間になりました。

 

1993年に同居の姑を見送り、船橋の水泳教室に入り、何十年ぶりに泳ぎ、

後にすぐ近くのビルにプールができたので、一人で夕方一寸行って

1500メートル泳いで体と気分がすっきりしました。

ここに越してからは都合が悪くなり、それきりです。

 


危険な暑さとの闘い

2023-07-25 10:44:23 | Weblog

7月11日午後1時20分頃

少しの洗濯物を取り込むためにベランダに出ました。

洗濯物を手にして部屋に入ったとき頭がくらくらし、

椅子に腰掛けようとしたとき、意識が朦朧とし、

そのまま倒れてしまいました。

娘がすぐに頭と喉を冷やしてくれ、椅子に腰かけて元に戻りましたが

初めての体験で驚き、改めて日射病と熱射病について検索し

怪我もしないで、誠に幸運だったと思いました。

 

 


1970年にピレニーズが我が家に

2023-07-21 15:52:43 | Weblog

戌年の1970年のお正月、銀座のMデパートで

犬博展が開催されました。

前年に、ポインターと日本犬を亡くした我が家、

次の犬を飼う気持ちになれないのに、見に行きました。

そこで優雅な、白い大きなピレニーズと出会い

後にそのピレニーズの専門犬舎 ハウスユキエ犬舎から

雌犬を購入し、ロミと名づけました 。

日本での正式犬種名は、グレート ピレニーズですが

一般には英国犬主名の、ピレ二アン マウンテンドッグの

「ピレ二アン」 と呼ばれていました。

 

そこから私の人生の半分はピレニーズと共に歩んだわけです。

三人の娘たちを育てながら、ピレニーズの虜になって

1970から第二の人生を歩んだようなもので

同居の姑、犬を飼ったことのない夫、

私の趣味を認めてくれたことに感謝で一杯です。

ロミをCHに仕上げ、そのの息子のレオをGCHに、そして娘のベルを、

CHに仕上げました。最後のチェリーは縁あって頂いたペットです。

 

名犬ジョリーのアニメの制作はお手伝いをし、放映され

一躍人気アニメになり、アメリカやイタリアなど海外でも放映されました。

1981年からはJKCの登録数が増え

犬雑誌の記事を書いたり、専門書の執筆依頼あり

1984年には拙著「素晴らしきピレ二アン」が出版されました。

 

写真は2002年の本部展に90頭近く出陳され、望遠レンズを使わなかったのでボケていますが、それは見事なピレニーズのショー光景でした。

 

 

 


満94歳を迎えて

2023-07-19 14:36:17 | Weblog

3日前の7月16日に満94歳の誕生日を元気で迎えることができました。

 

7月6日に下総中山駅前教室の先生のブログに

私のことを2002年に入会し20年余、今94歳と紹介してくださり

恐縮と恥ずかしさで一杯です。

当時の拙いパソコン画も載せていただき、有難うございました。

 

2002年にパソコンを始めて、夢中でワードを練習し、

過去の記録を保存したい気持ちで雑文を書きました。

ブログは2005年の9月7日から, 教えていただいたことを

頭に入れて、書いてみたのが始まりです。

 

思い返せば、1941年12月第二次世界大戦が勃発し

13歳で都立武蔵高女に入学したばかりの1942年4月18日に米機の初空襲があ

り、授業中で机の下にもぐりました。授業は1944年の7月までで、

昭和飛行機工場に学徒動員されで飛行機造りです。

15歳の少女たちがグラインダー使用の作業をし

ハンマーを振りかざしたりして、日本の勝利を信じていました。

 

12月末に埼玉県の川越に疎開、女学校では満蒙の兵隊さんの軍服を縫いました。

三月の東京大空襲は東京方面の空が真っ赤で、川越から見た

あの光景は目に焼き付いています。

7月20日に父の故郷の広島の山村に疎開して

8月6日広島に原爆が投下され、

ぴかっと光りぐらっと揺れた体験は何度か書きましたが、

8月15日終戦となり、9月に帰郷、東京での生活が始まりました。

そして今日までの長い年月、健康で生きていることを想い、

神様が与えてくださった私の運命だと感謝の気持ちで一杯です。

 

下の雑誌は私が川越に疎開した後、武蔵高女の生徒たちは寮に入

その様子を書いた本が,だいぶ後に出版されました。

最後はヒロポンを飲んでまで徹夜で働いたそうです。

すごい体験談なので新聞などに載せられました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


長い人生を顧みて

2023-07-05 16:42:44 | Weblog

2,002年に家のすぐ近くに下総中山駅前教室ができて

9月から入室することができました。

実家の母が7月に亡くなり、良いタイミングでした。

翌年から文章の書き方を教えていただき

書き始めてからもう20年になるので、人生の良い記録になります。

ピクチャに入れた画像も、貴重な記録になりました。

習い始めた頃、マウスで絵を描けるのが嬉しく、

子供のころの家の花壇を描きよき思い出です。

 

私は昭和4年7月に渋谷の日赤病院で生まれ、

生後6日目に父が病院で撮ってくれた写真を

ピクチャに入れて、人生の記録はそこから始まります。

よくぞ長い年月生きてきたものだと思います。

 

 

 

 


コロちゃんへの思いは永遠に

2023-06-30 15:31:52 | Weblog

コロちゃんは近くの画家の家の犬で

毎日我が家に遊びに来て可愛がるので自宅に帰らなくなり

画家の家から譲り受けたのです。

夏休みのラジオ体操にも連れて行き抱いたり走ったり、可愛くて

いつも一緒でした。

川越に疎開した時はハイヤーで抱っこしていったのですが

広島県への疎開はどうにもなりません。

身の千切れる思いで、コロちゃんとお別れした辛さ、今も胸が痛くなります。

東京は何度もの空襲で何万人の死者がでていて飼い犬や猫も亡くなったことでしょう。

動物園の像やライオンやヒョウは殺されました。

終戦になりコロちゃんを迎えに行き,亡くなったと聞いた時の

悲しさつらさ、言葉になりません。

 

 

 

 

 

 

 

 


戦時中,愛犬コロとの辛い別れ

2023-06-28 10:52:20 | Weblog

1941年12月に第二次世界大戦が勃発し

住んでいる東京の吉祥寺から

1945年埼玉県の川越市に疎開しました。

3月には東京大空襲があり、戦禍が激しくなり、

7月に父の故郷広島県に疎開しました。

東海道線に犬は乗せられず、

我が家の大事な大事なコロちゃんを信頼できる近所の人に預けるしかなく

つらいお別れをしました。

その時のコロちゃんの不安な、寂しげな瞳を今も忘れません。

8月に終戦となり、9月に帰郷し、早速、預けた川越のお宅に妹と迎えに行きました。

もう死にましたと言われ、愕然とした二人でした。

老齢ではあったけれど、たった2か月しか経っていないのに。

きっと急の別れで、食事もとれなく衰弱したのでしょう。

家族の宝であったコロちゃん、空襲警報が出れば

コロちゃんをすぐに抱いて防空壕にはいったのに。

つらい悲しい思い出です。