つれづれ日記

心と目の記録

Oさまの愛猫ラグドール潤様とパステル画

2013-05-25 16:27:49 | Weblog

        S様のパステル画のHpです。

       http://kyoko-pastel.art.coocan.jp/                                                                                                                                      

    O様もS様ももう年齢を考えるとピレニーズは飼えませんが
    何時までも強い絆でお付き合いをさせて頂いています、
     S様は前から猫もお飼いでしたが、ダンデイ君なきあと
     大きい猫をと、ラグドールをお飼いになりました。
     体重7.4キロある美しい猫でお客様が見えると必ずその場にいて
     注目されるのを喜んでいるようです。犬のようにお手、お変わりが出来ます。

テーブルの上のガラスのお盆の中がお気に入りで、写しました。名前は「潤」

下はS様のパステル画でお家の中に長い年月の作品が500点以上あるので驚きです。


ピレニーズの飼い主の絆

2013-05-25 15:43:02 | Weblog

昨日は2年ぶりにピレニーズのお友達S様のお宅にO様と伺いました。

O様もS様もピレニーズを見送ってから10年になり今はいません。。

上はO様の3代のピレニースの写真です。左から祖母(はなちゃん)、母、(二コちゃん) の息子(クニオ君)

ハナちゃんは13歳2ヶ月、二コちゃんは14歳の長命で天寿を全うしました。
ピレニーズの老後は寝たきりになると介護が大変です。
立てなくなって寝たきりになった場合、お下の世話をするのは体重があるので重労働です。。
O様は上手におむつカバーをつくり、排尿も排便も犬が気持ちよくでき
介護をする飼い主の負担にならないような方法を考えて介護をされ、ご愛犬を安らかに見送りました。

ある日S様はピレニーズの12歳すぎたダンデイ君の腰が立たなくなり
動かすことも排便の始末も出来なくて困りはててお電話がありました。
O様に相談、するとO様はお名前も知らなかったS様のお宅に2時間もかけて駆けつけました。
うんちまみれのダンデイ君を女二人で浴室に運び綺麗にして
用意してきたおむつやカバーをつけて犬は気持ちよく、介護が楽なようにしてくださいました。

以来お二人は尊敬しあう関係になり、O様はパステル画の先生S様の生徒になりました。

ダンデイ君のお部屋は今は麻雀室になっていて、ダンデイの大きな写真や絵が飾られていました。






イギリスのクラブから発行されたピレニアンの本

2013-05-19 10:56:07 | Weblog

1976年にイギリスのクラブに入会しまし、セクレタリーのアラン・ハーウッド氏か嬉しいお便りを頂き
クラブから発行されている緑色の本を贈って下さいました。

93頁の小さな本ですが、歴史からスタンダード飼育法、ブリードなど全般について書いてあります。

1970年前の東京畜犬事件で、英米、特にイギリスでは日本は野蛮な国で
ドッグワールド誌に
「日本に犬を送るとこうなりますよと言う題名で、ピレニーズが鎖につながれ
逃げようとして首輪がしまり、倒れている無惨な写真が載っていました。
そのため日本人をイギリスのクラブに入会させるのは簡単ではありませんでした。
私費出版の本や写真など沢山おくり、ハーウッド氏は私を愛犬家と認めて下さったのです。

今考えると長い道のりでした。


GPCAから頂いたピン

2013-05-17 15:23:35 | Weblog

 ピレニーズの魅力にはまり、アメリカのクラブに入会して35年になりますが
 1981年に会費を払い忘れて82年からの会員として昨年30年連続会員になりました。
3月になって連続30年メンバーとしてピンを贈りたいので
4月にテキサスで開催されるナショナルドッグショーの会合に出席できれば
その時授与しますという手紙を受け取りびっくりしました。
行かれないむねメールをしたら昨日届きました。

            

一つの目標にかけて30年以上連続するのは
確かに長い道のりをたゆまず歩きつづけることで意義があります。
ピレニーズという神様が私を引っ張って導いて下さり、私はその魅力にとりつかれた信者だと思いました。
アメリカのクラブの会員リストを見ても30年以上の会員は少ないのです。

 

 

 


5月の花と胡蝶蘭

2013-05-14 16:13:05 | Weblog

爽やかな5月になり、ベランダの花々が一斉に咲いて
鮮やかな色彩を楽しんでいる毎日です。
しかし胡蝶蘭を頂いて、蘭の格調高い雰囲気に見とれました。
野の花も豪華なお花も私たちの心に潤いを与えてくれ幸せに感謝です。


素晴らしきピレニアン

2013-05-12 10:48:06 | Weblog

教育教材を作成するお仕事で文章やマニュアル書きをされるプロのFさまから
拙著「素晴らしきピレニアン」をご覧になられメールを頂きました。
「あれだけの情報を記載する為には、大変多くの取材と調査纏めなど時間がかかったと思います。今ならインターネットやメールで情報が早く集まりますが・・・・」と。こんな有り難いお言葉を頂いたのは初めてのことで、有り難くお言葉が胸にしみました。
F様はピレニーズのシェリー君との楽しい毎日を送られてHPをアップされています。


1984年に出版され七刷されたこの本を書いた時をしみじみ思い出しました。


上の写真は私のブリード犬の4代先の子犬です。近くで生まれたので2ヶ月以上私も楽しい時を過ごさせてもらいました。プロの犬のカメラマン 増田 勝正氏撮影。子犬が飛び降りてしまうので並ばせるのに大変苦労しました。


F様が仰るように今なら世界の情報が簡単に入りますが、43年前はフランスノだけの地図さえ簡単に売っていませんでした。
紀元前からのこの犬のルーツを調べるのに西洋史を勉強、地理を調べて、この犬がピレネー山脈にたどり着くくまで・・・・真剣に調べました。
ドッグショーに出し、仲間と愛好会を作り、ブリードを体験し、この本は飼育して14年目に出版されたのです。

予想もしなかった事ですが、飼い始めからの事、調べた本の紹介をブログに載せる事にいたしました。
ピレニーズの虜になった私が、ひたむきな情熱で夢中で探求した事ばかりです。
ピレニアンの愛好家のお役に立てれば嬉しいと思います。

 


 

 


トロワ フォンティーヌ夫人とピレニアン

2013-05-10 16:15:02 | Weblog

イギリスのフォンテェーヌ夫人は数年間にわたりフランス全土を旅行した時に2回ほどピレニアンに出会い魅力にひかれたのです。
夫人は1934年にフランスからピレニアンを迎いいれ、1936年にクラブを創立しました。
コップという犬はオペラや映画で活躍し、人々にこの犬種の素晴らさを認識させました。


1972年10月に89歳で亡くなるまで会長をつとめ、イギリスのピレニアンの発展のために貢献されたのです。
この本はピレニアンについての事が書かれていて1963年に発行され、72年の3月に改訂版が発行されました。
改訂版には、日本に送った犬たちのこと、68年に三井家に1頭の牡を譲られた事など書かれていて、安藤先生のお嬢様と2頭のピレニアンの写真も載っています。

1960年に日本に2頭のピレニアンを入れた安藤孝行先生は、
ネバニタとイェルナとの間に立派な子をもうけしましたが、
牡のイェルナを3歳の時にフィラリアで亡くし、その後に入れた牡のビランドウ・アンドウも
若くして不明の病気で死に、失意に中で先生はパールムーン犬舎を閉じました。
1970年に我が家にピレニアンを迎え、犬種についての
ご教示を頂こうとお手紙を差し上げましたら
日本のピレニアンの為に後を嗣いで欲しいと、沢山の写真と
トロワ・フォンティーヌ夫人の本を送って下さいました。
フォンテェーヌ夫人からイェルナ を譲り受けた時に頂いたという
貴重なこのご本を私は頂いたのです。。。

 


愛犬ジャーナルにピレニーズの記事を連載

2013-05-03 11:17:40 | Weblog

レオ君が表紙になったことで
愛犬ジャーナルの編集長からピレニーズの記事を連載するように依頼され
毎月3頁の記事の連載が始まりました。
犬種の歴史から始まりなスタンダード、飼育法などの他に
当時の日本のピレニーズの様々なお話を盛り込んで3年以上記事を書き
記事以外のドッグショーーの写真もグラビアとして依頼されました。

                                 

    アメリカで1949に発行されたメリークレインの著書
         全680頁の分厚い本です。                        40年後に1000部再販された著書

    1970年当時プロのピレニーズの犬舎は
    ハウスユキエ犬舎だけでした。
    1970年に我が家にロミを迎えた後にハウス・ユキエ犬舎は
    日本に初めてアメリカから、
    AM.CH マクタビッシ・ヂィ・モンタブルを輸入しました。(レオ君の父犬)
    オーナーのダンカン・ライト氏が連れてきて下さり帝国ホテルにお泊めし、
    丁重におもてなしをされたそうです。この青い本をハウスユキエは頂いたのです。
    日本に1冊しかないこの本をお借りして、コピーの本を作りました。
    1970年頃にはコピーの器械は普通にはなく、東京浜松町の貿易センターにある会社でコピーを頼みました。
    最新の機械なのに写真は全くコピーされず白く空いていて記事だけでした。
    680頁は2冊に仕上がり2万円以上かかりましたが、ピレニーズの資料として宝の詰まった本です。
    ジャーナルの記事を書くのに心強い資料ですから。
 
    この本はハウスユキエ犬舎のご主人が亡くなられたあと、
    譲って頂き今も大事に保管しています。
    この出版社は火事で焼け、後にこの本は入手出来なくなったそうです。
   1983年にポール・ストラング氏が来日された時
   私宅の本棚にあるのをみて、本当に驚かれ、アメリカでも稀少な本で手に入らないと言われました。
   40年ぶりにある出版社が再販したので又求めました。