軍艦長門の生涯 新潮文庫 阿川弘之
昔の写真を整理していたら、小学4年生の遠足で横須賀の軍港に行き
戦艦長門に乗って記念写真がありました。
おもわず戦争や戦艦ことで頭がいっぱいになり、沢山のことを調べました。
下は2013年8月19日に書いたブログです
昔の写真を整理していたら、小学4年生の遠足で横須賀の軍港に行き
戦艦長門に乗って記念写真がありました。
おもわず戦争や戦艦ことで頭がいっぱいになり、沢山のことを調べました。
下は2013年8月19日に書いたブログです
毎年8月15日になると終戦前後の思い出が頭に浮かび数日は気が重くなります。小学2年生の時日中戦争が始まりました。南京陥落の提灯行列に参加させられたりして、日本は世界一強い国だと洗脳されました。武蔵野第一小学校の4年生の遠足は、横須賀の軍港で、軍艦に乗りました。後ろの石倉先生と女1組の約50人。生徒の最後列右から5人目が私。
私の記憶では、この戦艦は日本一と言われる 「長門」だと聞いてすごい戦艦に乗ったという誇りを胸に抱いていました。今になると本当に長門だったのか疑問に思いますが。長門について調べてみると、長門の運命は想像を超えたものでした。1920 年に竣工され横須賀鎮守附府に入籍、1923年(大正12年)に連合艦隊旗艦となりました。世界最大口径の主砲と高速戦艦で世界の軍艦史に大きな影響を与え長門と姉妹艦陸奥は日本を代表する戦艦で国民に親しまれていました。11そうの戦艦が戦没した中で唯一健全な戦艦として終戦を迎えました。1945年(昭和20年)9月に米海軍に接収されビキニ環礁における原爆実験の標的にされ就役後25年8カ月の生涯を終えたのです。
ピレニーズの話はおいといて、早速ですがこの長門かもしれない写真を分析してみました。
まずこの主砲の砲身が短いので、長門の主砲口径41センチ45口径砲ではなく、それ以前の口径35.6センチ45口径砲だとわかります。これに該当する戦艦は第二次大戦中には8隻あります。
次に砲身の前(人物の背中側)に構造物があり、さらに後ろに二本の縦線がうっすらと写っていますが、これが主砲側面にある梯子であると思われるところから、主砲と主砲の間に構造物がある戦艦を8隻のなかからしぼりますと、同型艦(姉妹艦)の扶桑と山城が残ります。
しかしながら同形艦で微妙に相違点がありますので、注目したのが最後列の背の高い先生の後部に写るメッシュの構造物(排気用の何かでしょう)です。これが山城のみの特徴です。
結論としてこれは戦艦山城の(前から)四番砲塔
の砲身の下で艦首の方を向いて艦の左舷で撮影したものだとわかります。
山城も悲しい運命を辿った戦艦です。
左舷でなく右舷です。前方を向いて右側です。