つれづれ日記

心と目の記録

パソコンに感謝です

2014-08-30 15:24:48 | Weblog

 広島の疎開先から32Kを歩いた道を調べるために日記に出てくる名前を地図で調べました。

出発の地点からマウスでグーグルマップで道を歩くと辺りの景色が分かります。
どの辺で川を渡らねば先に行けない橋が落ちていたか想像しました。32Kの最後の
4分のⅠ位は国道でないので道が分かりません。32Kは私の生涯で一番歩いた距離です。
69年前は舗装されないガタガタな道の国道だったのでしょう。
そして周りの風景も全く違っても歩いた道を今マウスで歩けるなんて有難く
不思議なことで感心しました。
疎開で大変お世話になったN様の家をグーグルマップで見ることができました。

心からのお世話をして頂きご馳走になり、私と妹はお手伝いをし、離れ座敷前の立派な築山の草取りをしたことが日記に書いてあります。
本郷駅まで送ってくれた若者の一人(8月21日の記事)がこのN家のご主人で今もご健在で地域のためにご活躍と聞いています。。

 


ピレニーズとの44年に感謝

2014-08-25 10:20:11 | Weblog

初めてピレニーズと出会って、45日の子犬を迎えたのは1970年の6月でした。
自分の人生にとって大きな世界や節目があります。
私がピレニーズの世界に入って44年目を迎え、いまだに心の中はピレニーズへの思いで一杯です。

初めてのピレニーズ ”ロミ” 牝1歳、三女と一緒。

日本にピレニーズがお目見えしたのは1960年のことで
1970年には全国で400頭もいなかった稀少犬で、イギリス系しかいませんでした。
ロミの息子のレオ君、娘のベルちゃんと、ひ孫のチェリーを飼い24年間生活をともにしましたが
姑女の年や当時の状況で飼育は終わりました。
しかしピレニーズのためにいまだに情熱をかけて努力しています。
77年創立して私が責任者であるピレニーズのクラブGPCJは今年で37周年になり
イギリスのピレニーズのマガジンに24年間記事を掲載しています。

ロミちゃんが私をピレニーズへの魅力の虜にしてくれ
探究心が本を書いたり、海外を含め大勢の友達を得て
私の人生を充実させてくれたのだと
神様が下さった運命に感謝をしています。

 


終戦の年の9月に

2014-08-21 18:08:33 | Weblog

母と弟たちを残して9月23日に父と私と妹は疎開先から東京に発ちました。
昭和三大台風と言われた枕崎台風が9月17日に上陸し広島では2012人の
死者と行方不明者の犠牲者が出ました。
父が25日の会社の会議に出るため台風後の23日に出発です。
山陽本線の河内駅が乗る駅ですが、上りの次の本郷駅の間が不通で本郷駅まで
台風後の8里の道(32キロ)を歩いて本郷駅に着き、2日かかって東京駅に着いたのでした。
東京駅は戦災で屋根がなくトイレに入っても空が見えたのです。
写真の東京駅は5月の大空襲で焼けたあとです。

 32キロ歩いた記憶は今でも忘れられません。
道路は荷車も動けないのですから、親戚の若者3人に自転車に重い荷物を載せてもらい
私たちはボストンバックを持ち肩掛けカバンをかけて歩いたのです。
田舎のおじ様たちから東京に帰るなとずいぶん言われましたが
私と妹は早く帰りたい一心で危険を覚悟しても帰ることにしたのでした。
洪水になった村の家の屋根だけしか見えないすさまじい光景
川の石橋が落ちて命がけで川を渡った思いは忘れられません。

本郷の旅館に1泊し、翌朝7時に乗った汽車は駅に着くたびに
復員兵や疎開から帰る人で満杯になり、どの窓からも乗り込んできます。
男性は汽車の屋根の上の両側に並んでいます。
トンネルの中ではさぞひどかったでしょう。
大阪で一度おろされましたが、東京に着いたのは次の日の朝でした。
東京駅について本当に安心したものです。

 


終戦記念日

2014-08-15 17:08:26 | Weblog

  1998年庭のかのこゆり

今日は終戦記念日です。

昨日10年余ぶりに、69年前の日記を出しました。

昭和16年から25年までの日記20冊近くは大事に保存してあるのですが、インクの色があせて読み辛く、
終戦前後の部分の日記をようやく読んでみました。
大東亜戦争が始まり戦況は厳しくなった昭和19年の7月に女学校3年生15歳の私たちは
昭和飛行機工場に勤労動員され必死で働きました。

その年の暮に川越に疎開し、20年の7月24日に父の故郷の広島県の世羅郡に疎開、
8月6日に大きな揺れと光を見ました。

8月6日には広島に大きな爆弾が落ちたと書いてあります。、
原子爆弾と分かったのは後のことで何にも分からなかったのです
。8月15日の終戦の日のことは2ページほど書いてありました。

昨日から頭の中は戦争についての考えで一杯です。

 


戦前戦後

2014-08-14 11:15:29 | Weblog

 

軍神広瀬中佐の銅像について別のサイトに次のことが出ていました。
昭和18年に供出されたと数か所で見ましたが次のj記事が本当だと思います。

「戦前、東京・万世橋駅前にそびえ立っていた巨大な銅像。「廣瀬武夫海軍中佐」像。
当時の日本軍により「軍神」(注1)と崇められ国民の戦意高揚の為に設置された銅像
であった。第二次大戦後、GHQにより「軍国主義イデオロギー」色が濃いという理由で
“戦犯銅像”(注2)として撤去処分を受けた」

戦前と戦後の変わりように私たちは戸惑いながら過ごした日々、
しかし皆めげずに戦争が終わったことで、明るい方向に生きて行ったのです。



戦時中にバルコニーは

2014-08-13 17:05:52 | Weblog

大東亜戦争が始まって日本には金属の資材がなくなり、昭和18年には東京都で金属非常回収工作隊が結成されました。家庭の金属まで強制的に供出の命令がでて、
井の頭の花火を鑑賞したバルコニーの手すりもはずして供出させられ
立派な置時計や銅の布袋様も供出して子供心に疑問を感じました。
二宮金次郎の銅像、寺院の梵鐘までみんな供出したのです。

バルコニーの思い出から厳しい戦争中の話になってしまいました。

万世橋の旧駅前にあった広瀬中佐と杉野兵曹の銅像
立派な銅像も供出されたのです。


線香花火

2014-08-10 15:54:06 | Weblog

花火は美しい色と形を輝かせ、瞬間に消え変化し
心に感動を与える芸術作品だと思いました。
子供のころ暮らした吉祥寺の私の家には
8畳くらいのバルコニーがあり、夏にはお客様をよんで
近くの井の頭公園で打ち上げる花火を見るのが楽しみでした。

私が5年生の頃遊び半分で描いた絵があり載せてみました。
左が私で妹と弟二人の4人兄弟で線香花火を楽しんでいます。


花火のつづき

2014-08-07 16:10:39 | Weblog

8月2日の幕張と習志野での花火をじかに見に行ったらどれほど素晴らしかったでしょう。
幕張では30万人の人出だったそうで私どもには行かれません。
自宅ベランダでは、高く上がった花火しか見られませんが本当に美しく
今も目に浮かび写真を見てしまいます。
左は幕張、右が習志野の花火です。


花火のつづき

2014-08-07 16:10:39 | Weblog

8月2日の幕張と習志野での花火をじかに見に行ったらどれほど素晴らしかったでしょう。
幕張では30万人の人出だったそうで私どもには行かれません。
自宅ベランダでは、高く上がった花火しか見られませんが本当に美しく
今も目に浮かび写真を見てしまいます。
左は幕張、右が習志野の花火です。