1970年の戌年に、日本橋のデパートで犬博が開かれ見に行きました。
初めて見た白い犬ピレ二アン、日本犬のコールを亡くした後でした。
鎌倉のハウスユキエ犬舎のピレニーズで
早速鎌倉に会いに行き子犬を予約し
6月半ばに子犬をわが家に迎えることができました。
庭で放し飼いにして、自由に育てたロミちゃんです。
1970年の戌年に、日本橋のデパートで犬博が開かれ見に行きました。
初めて見た白い犬ピレ二アン、日本犬のコールを亡くした後でした。
鎌倉のハウスユキエ犬舎のピレニーズで
早速鎌倉に会いに行き子犬を予約し
6月半ばに子犬をわが家に迎えることができました。
庭で放し飼いにして、自由に育てたロミちゃんです。
初めてマウスで絵を描いてみたのは
メールができるようになり浮き浮きしていた20年前で
まず描いたのがピレニーズの子犬です。マウスで描いてみただけの
ぎこちない絵ですが、シールを作ったり罫線を引いて作った
便せんの隅に入れたりできるので、夢が広がりました。
家の近くにパソコンの下総中山駅前教室ができ
2002年の9月からお教室に通う事が出来たのは
誠に幸運なことでした。(その後マンションに転居)
7月に実家の母を見送り人生の節目だったように思います。
2003年1月からインターネットが開通して兄弟や友人とのメールを楽しみました。
私の好きな絵を描いたり便せんを作ったりして楽しみました。
最初はピレニーズ、そして尾瀬の絵を描きました。
20日に載せた日本画とは、全く違う趣のパソコン画です。
グレートピレニーズをわが家に迎えた1970年から、早50年余の歳月が流れました。
お世話になっている獣医師の桑島先生からドッグショウに出陳を勧められ
初めて1970年秋にドッグショーに参加、犬種について調べたく、探求が始まりました。
1973年に我が家の愛犬ロミと、ハウス・ユキエ犬舎のAM CHマックと交配し、
6頭生まれた中にオスは1頭だけで、その雄をわが家に残し、レオと名づけドッグショーに出し
G.CHに仕上げ、そして2年後に同じ組み合わせで生まれた雌のベルを、CHに仕上げました。
当時JKC の登録頭数は少なく、犬種についての記事は大野淳一先生の1ページくらいしかありません。
1973年に妹が住むパリに行った時
アメリカのピレニーズの第一人者クレイン夫人のガイドブックを本屋で見つけ
喜んで求めましたが、フランス語なので訳してもらうのが大変でした。
イギリスのクラブに入会してトロワ・フォンテーヌ夫人のガイドブックを入手し
とても勉強になりました。
1981年にアニメの名犬ジョリーが放映され。ピレニーズは
一躍人気犬となり頭数が増え、JKCの神奈川北ピレニーズクラブが創立され、
初めて単独展を見た時の感動を思い出します。
神奈川北グレートピレニーズクラブ展 1991年2月26日 相模原にて
殆どオーナーハンドラーで楽しいドッグショーでした。
長い人生の記録を纏めようと、古い日記帳と手帳などを出しました。
日記帳は1944年女学校3年生の4月より、結婚するまでの16冊のノートです。
1970年にピレニーズの子犬をわが家に迎え犬日記が始まりました。
当時日本には犬種について書いた本はなく、仲間に勧められて
1975年に今は亡きN様と、下の本を私費出版しました。
参考文献はイギリスとアメリカの専門書で、
飼い方は、飼育体験などを纏めました。
当時はピレニーズという人は少なく
ピレ二アンと呼ばれていました。
ピクチャの整理をしていたら、昔描いた尾瀬の絵がありました。
1999年6月、Tデパートの友の会の主催のバス旅行で、会津高原ホテルに一泊2日の
尾瀬の登山があり、妹と二人で参加しました。
峠のバス停で降り、針葉樹林の森を登り、沼山峠の展望台1785mから
周りの山々が一望できました。
尾瀬沼の東海岸に着き、そこから燧ヶ岳 (ひうちがだけ) をスケッチしました。。
私にとって初めての登山で、忘れられない思い出です。
仕上げた日本画です
長い人世を振り返るこの頃
私の心の中には、いつも犬が存在して生きてきたことは確かです。
渋谷で生まれた私は3歳頃に、忠犬ハチ公の頭を撫で、
4歳頃に郊外の吉祥寺に越してきて
お隣のセッターと仲良くなりました。
その後わが家に迎えたコロちゃんが私の初めての大事な宝で
沢山の思い出があります。
コロちゃんを抱いて 写真館で撮った写真をトリミングしました。
1945年になると東京は空襲が激しくなり
7月に父の郷里の広島県に疎開しました。
当時は汽車に乗るのも ままならない状況で
犬は連れていかれず、犬好きの知人に預け悲しいお別れをしました。
あの時のコロちゃんの悲しい表情は忘れられません。
8月15日に終戦となり、9月に東京に戻り
すぐに預けた家に迎えにいきましたが、
病気で死にましたと言われました。
この時の心境はとても言葉にはなりません。
修学旅行で三条河原の大橋近くの宿に泊まりました。
この付近の河原はかっての処刑場でした
1594年、石川五衛門は、釜ゆでの刑に処せられ
1600年、石田三成は関ヶ原の戦いで敗れ六条河原で斬首刑、
1868年、新撰組の近藤勇は板橋刑場で刑に処せられ三条河原に運ばれ、
三条河原で晒し首にされたそうです。
調べるほどに残酷な話が次々に出てきます。
下は 三条河原の晒し首の様子 と記されています。
修学旅行の絵巻きの終わりは、私が買ったお土産です。
学校で決められた少ないお土産代で、
舞妓さんの絵のついたお扇子と小箱を
二つ買いました。
京都見物を終えて又汽車に乗り鳥羽の宿に帰りました。
晩御飯をゆっくり頂いて帰りの船に乗り早く寝ました。
朝,目を覚まし、船の甲板に出て日の出を見ました。
その時の心地よい感動が書かれています。