つれづれ日記

心と目の記録

1946年の思い出

2016-08-30 10:14:46 | Weblog

終戦の翌年1946年に、外国映画が次々に入ってきました

写真の絵は当時私がお遊びで描いたイングリット・バーグマンで

画用紙は半分に折り畳んであり、古い物の中にありました。

都立の厳しい女学校でしたが、5年生は学校から12月の末、

画館に「追憶」を観に行ったのです。

ジョンペインとクローデットコルベールのラブシーンは

辛い戦時中を過ごし、敗戦を迎えた少女達の眼には夢の世界でした

 

70年前の日記を見ると敗戦翌年の厳しい生活に改めて驚きました。

お米、小麦粉、砂糖 醤油、油、木炭、ろうそく、電球。ちり紙などすべて全く販売されてなく、配給だけで後は闇で高値で買うしかありません。

11月になると電力制限が強化され、年中停電になりました。

冬の試験勉強は自室ではなく、茶の間の堀り炬燵に集まり、腰掛けて、

妹と上の弟と私の3人で 炬燵の炭火が消える夜中の2時ころまで勉強しました。

停電の夜は、配給された魚油のランプのとろとろと淡く燃える明か

りで良く勉強ができたものです。

 

 

上野では沢山の焼け出された浮浪者が餓死したり、焼け野原の

バラックで住む人が多くいたのに、外国映画を見た事は今

になって不思議に思います。その年の外地からの引き揚げ

者は500万人だったと今知りました。

 

 

 


終戦の日

2016-08-15 17:03:32 | Weblog

終戦から71年目を迎えた今日、しみじみ不条理な戦争について考えました。

最近71年前に書いた日記帳を読み、戦時中の一日一日の記憶が

頭の中に居座っているので、その思いは格別です。

父の故郷の広島県に疎開して、伯父さまの家でお世話になり暮らしていました。

8月15日の日記には、「今日は重大放送があると言うので、早くから

ラジオを付けて待っていた。山陽本線も10分止まったそうだ。

陛下の玉音放送で、日本は無条件降伏をしたと・・・・・

7月23日に川越から広島に疎開して、8月6日に広島市に原子爆弾が投下され、9日には長崎の原子爆弾が投下 され、!

 8月15日に敗戦!

 

 ただ呆然とするだけ。

 

戦争で私が一番怖い思いをしたのは、疎開した川越で女学校に行く途中

アメリカの1機のグラマン機が私の方に向かって降りてきました。

低空なのでアメリカ兵の顔が見え眼があってしまい、怖くて地面に伏せました。

もう死ぬかと覚悟しましたが 飛行機は遠ざかりホッとして学校に行きました。

女学校では北満の兵隊さんの厚地のオーバーを縫う作業でした。

グラマン機は機銃操作で子供が歩くのを狙って、撃ち殺されたりしたので

す。戦時中の子供時代の体験を書いた知らない人のブログで、同じような

体験をした4人の記事を見ました。子供をからかって撃ち殺すなんて・・・。

 

B29の飛行機から、爆弾や焼夷弾が雨のように振り落とされるのを川越から夜中に見た光景は一生忘れられません。それは

3月9日~10日、  東京大空襲(無差別夜間絨毯爆撃)B29約300機、

22万戸焼失、死傷12万人、罹災者100 余万人でした。

 検索で調べたら、油を地域一面にまいてから焼夷弾を落とした
 
ので、火の海になり逃げることができない凄惨な状況であったこ
とを知りました。

 

 戦争の水彩画は一度ブログに載せたような気がしますが

私の1枚だけの戦争画なのでのせて見ます。

日本は世界一強いと信じていた14歳の頃描いたものです。

日本が勝っていた頃の,のどかな戦争の絵になっています。

 

 


可愛いマイクロ胡蝶蘭

2016-08-05 15:59:45 | Weblog

 

とても小さく可愛いお花は、声をかけたてしまうほど魅力ある胡蝶蘭です。

7月の初めから部屋の棚の主役になって、

オーラを発揮している不思議な胡蝶蘭、

夜は桜色が鮮やかに見え、桜が満開のように華やかです。

 先月はバグダードのテロ事件があり、障害者施設における殺傷事件がありました。

重い心をやさしく癒してくれる花々の力をしみじみ感じるこの頃です。