終戦の翌年1946年に、外国映画が次々に入ってきました
写真の絵は当時私がお遊びで描いたイングリット・バーグマンで
画用紙は半分に折り畳んであり、古い物の中にありました。
都立の厳しい女学校でしたが、5年生は学校から12月の末、映
画館に「追憶」を観に行ったのです。
ジョンペインとクローデットコルベールのラブシーンは
辛い戦時中を過ごし、敗戦を迎えた少女達の眼には夢の世界でした。
70年前の日記を見ると敗戦翌年の厳しい生活に改めて驚きました。
お米、小麦粉、砂糖 醤油、油、木炭、ろうそく、電球。ちり紙などすべて全く販売されてなく、配給だけで後は闇で高値で買うしかありません。
11月になると電力制限が強化され、年中停電になりました。
冬の試験勉強は自室ではなく、茶の間の堀り炬燵に集まり、腰掛けて、
妹と上の弟と私の3人で 炬燵の炭火が消える夜中の2時ころまで勉強しました。
停電の夜は、配給された魚油のランプのとろとろと淡く燃える明か
りで良く勉強ができたものです。
上野では沢山の焼け出された浮浪者が餓死したり、焼け野原の
バラックで住む人が多くいたのに、外国映画を見た事は今
になって不思議に思います。その年の外地からの引き揚げ
者は500万人だったと今知りました。
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