つれづれ日記

心と目の記録

文集「飛行機工場の少女たち」女学生勤労動員の記録

2016-05-30 09:37:32 | Weblog

昭和飛行機工場で製造していた「DC-3零式輸送機」

 

昭和記念公園の花に導かれて72年前にタイムスリップしてしまった私は

当時の生徒が28年後に書いた文集「飛行機工場の少女たち」を久しぶりに読みました。

私は昭和20年初めに疎開したのでこの中には入っていません。

先生と生徒60余人の書いた154ページに纏めた文集を見て、胸のつまる思いです。

(2008年のブログにこの文集の事を書いてありますが、ブログの流れに入れるため紹介します。)

 14歳から15歳の少女たちの必勝を信じての飛行機製作の仕事は、

主に写真の「DC-3零式輸送機」で軍用の30人乗り中型輸送機ですが、特攻隊の飛行機も造っていたことを後で知りました。

私は倉庫の準備係に配属され、重労働はあっても危険はありませんでした。

板金工場に配属された人達は、ジュラルミンの板で飛行機の部品を造りました。

一枚の大きな重いジュラルミンの板をおがくずで磨き、鉄板で造られた型を載

せてえがき、手に豆ができるほどの大きな重い鋏でこれを切ります。

周囲をやすりで磨き、ドリルで要所要所に穴をあけます。

その後巨大な2000トンプレスで押され(専門の工員さんに)、戻った部品は

今度は絞り斑に回され、それを万力に挟み、カーブした部分のしわを木の

ンマーで叩き、絞ったり伸ばしたりします。

次の工程ではもう一度周囲が整えられ焼き入れに回されるます。

この製品は飛行機の胴体、翼などの骨組みになる部品なのです。

小型プレス機の作業で部品を置いた手を出したまま、うっかり足を踏み

プレスして指を落とした人を3人は知っています。

鋲打ちでハンマーを振り上げジュラルミンに打ち込む鋲を抑えた手を

叩いてしまったり、ジュラルミンの切れ端での怪我は多かったそうです。

戦局が激しくなると、この作業を徹夜でするため、眠くて眠くてヒロポンまで

んで頑張ったと聞きました

今では信じられない現実でした。

 


昭和記念公園が飛行場だった頃

2016-05-20 15:38:01 | Weblog

国営昭和記念公園の180万本のシャーレーポピー 花の丘

私が学んだパソコン教室のHPの中には10余人のブログが載っています。

その中の「しもうさ悠歩道」さんのブログで、国営昭和記念公園の目の覚めるようなチューリッ

プの花壇や素晴らしい数々の写真を見せていただきました。

うっとりしながらもその光景が、私の心の中で公園になる前の立川飛行場に変わってしまいました。

昭和19年(1944年)戦局が苛烈になり、女学生も勤労動員に召集されました。

3年生は昭和飛行機工業です。,日本の勝利を信じ、お国のためにと飛行機DC-3零戦輸送機を作る仕事をして働いたのです。

私は吉祥寺から立川まで中央線に乗り、立川から青梅線に乗り換えました。

当時は右に立川飛行場を見て4つ目が昭和前駅で飛行機工場の正門です。

翌年日本は敗戦となり、立川飛行場は米軍の立川基地になりました。

1977年に日本に返還され、広大な土地の西側の一部が1983年に国営の昭和記念公園として開園されたのです。

東京ドームの40倍の広さの中に、花の丘を始め様ざまのゾーンがあることを知りました。

戦中派の人間は、美しい花を見ても、昔の少女時代の記憶が頭の中に浮かんでしまいます。

 


ピレニーズのコレクション キーホルダーなど

2016-05-11 17:05:49 | Weblog

長い人生の書類や写真などの整理をしていると、あっと言う間に日が流れてしまいます。

懐かしく思い出したり、反省したり、この整理は精神的にも物理的にも良いことだと思うこのごろです。

キーフォルダーやブローチを見つけた時、喜んで満足したことなど思い出します。

ピレニーズのものは日本にはあまりなかったので、アメリカ、イギリス、フランスなどのカタログを見て注文、

手紙や送金に苦労した若いころのエネルギーに我ながら感心しました。

一つ一つに物語があるのですが我が胸におさめます。

人生の記録は、少しずつエッセイとして書いて置きましょう。誰に見せるわけではありませんが

自分の人生の纏めとしたいのです。