昭和飛行機工場で製造していた「DC-3零式輸送機」
昭和記念公園の花に導かれて72年前にタイムスリップしてしまった私は
当時の生徒が28年後に書いた文集「飛行機工場の少女たち」を久しぶりに読みました。
私は昭和20年初めに疎開したのでこの中には入っていません。
先生と生徒60余人の書いた154ページに纏めた文集を見て、胸のつまる思いです。
(2008年のブログにこの文集の事を書いてありますが、ブログの流れに入れるため紹介します。)
14歳から15歳の少女たちの必勝を信じての飛行機製作の仕事は、
主に写真の「DC-3零式輸送機」で軍用の30人乗り中型輸送機ですが、特攻隊の飛行機も造っていたことを後で知りました。
私は倉庫の準備係に配属され、重労働はあっても危険はありませんでした。
板金工場に配属された人達は、ジュラルミンの板で飛行機の部品を造りました。
一枚の大きな重いジュラルミンの板をおがくずで磨き、鉄板で造られた型を載
せてえがき、手に豆ができるほどの大きな重い鋏でこれを切ります。
周囲をやすりで磨き、ドリルで要所要所に穴をあけます。
その後巨大な2000トンプレスで押され(専門の工員さんに)、戻った部品は
今度は絞り斑に回され、それを万力に挟み、カーブした部分のしわを木の
ハンマーで叩き、絞ったり伸ばしたりします。
次の工程ではもう一度周囲が整えられ焼き入れに回されるます。
この製品は飛行機の胴体、翼などの骨組みになる部品なのです。
小型プレス機の作業で部品を置いた手を出したまま、うっかり足を踏み
プレスして指を落とした人を3人は知っています。
鋲打ちでハンマーを振り上げジュラルミンに打ち込む鋲を抑えた手を
叩いてしまったり、ジュラルミンの切れ端での怪我は多かったそうです。
戦局が激しくなると、この作業を徹夜でするため、眠くて眠くてヒロポンまで
飲んで頑張ったと聞きました。
今では信じられない現実でした。
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