年をとってようやく人生の過去を思い出し確かめる時間ができました。
私の脳裏にある画像はカメラに収められません。
しかし検索をしてみると思わぬ画像が載っていて、しっかりと場面を確かめることができるのです。
少女時代に戦争、終戦と体験した私が見たい画像がちゃんと出てくるのですから。
汽車や電車に乗り切れないと、窓から入る様子、電車の屋根の上に人間が乗らねばならない当時の様子の写真までありました。
下山事件では、下山総裁の手首が、線路の上にある写真がありました。
戦後日本で起きた怪事件の数々は、当時日本を占領していた米国のGHQ(連合軍総司令部)が陰謀の限りを尽くし、暗躍する姿があったといわれています。
1949年の夏は、米占領軍と日本の保守勢力(吉田内閣)によって、100万人を超える労働者の首切りが計画されていて、政府と対立していた反対派の計画的犯行として、共産党員ら10人が逮捕され、一人の非共産党員の死刑が確定しました。
下山事件、松川事件と3つの事件は国鉄に絡んだ事件で、真相はなぞに包まれている2です。
井の頭公園のわきを流れる玉川上水は流れが速く、覗くと吸い込まれるような恐怖を覚え、子供たちは人食い川と呼んでいました。
玉川上水の起源は、1652年11月、幕府により江戸の飲料水不足を解消するため、多摩川から水を引く開削計画が立てられて始まり、1654年江戸市中への通水が始まったという古い歴史があります。
三鷹駅のわきから、井の頭公園の万介橋まで草花を摘みながら、川べりをよく歩いたものです。
今のように柵などなく、草が茂りうっかりすると滑って落ち、、底がえぐれているので助からないといわれました。
この川の三鷹と万介橋の中間で、1948年(昭和23年)の6月に太宰 治は山崎富栄と入水心中をし、翌日私は早速見に行きましたが、川べりは何事もなかったように草が茂っていたのを覚えています。
三鷹駅は私が武蔵境の女学校(現都立M高校)に通っていた時、毎日この駅から乗りました。(東京方面へは吉祥寺から乗ります)
1949年には世にも不思議な3大事件が起こりました。
7月6日に下山事件、7月17日に三鷹事件、8月17日に松川事件です。
私は当時高田の馬場にある、中央美術研究所に、通っていました。
プロのヌードモデルさんが来て、デッサン、クロッキーや油絵など描き、、6時から9時までです。帰りの電車に乗っている時に電車が止まり、何時間も動きません。(三鷹駅構内で電車が暴走したのは午後9時23分)
汗びっしょりになって、吉祥寺の駅に着いた時にはもう夜中の1時で、母が迎えにきていました。
翌朝三鷹駅での事件と知り、すぐ見に行きました。
女学校に行く時に乗った下りホームを超えて電車が道路まで来ているのです。
(検索をしたら、写真がったので載せました。)
(画面をwクリックすると大きくなります。)
毎年バラの季節になると、義母は郷里が同じで親しくさせていただいている北村西望先生のお宅に、庭の薔薇の花を沢山持ってお邪魔していました。
1979年の5月、膝が痛いので、代わりに私に薔薇をお届するように言われ私がお届けしました。
北村西望先生(1884-1987)は長崎県南高来郡のお生まれで、1903年に京都市立工芸学校(現京都市立芸術大学)入学、卒業後、上京して現東京芸術大学に入学。1921年には、現芸大の彫造部教授になりました。
日本を代表する美術家の一人で、代表作は長崎の平和記念公園にある
「長崎平和記念像」です。
1953年から井の頭公園の敷地内にアトリエを建てられ、お住まいでした。
私の故郷ともいえる吉祥寺の井の頭公園!そして自然文化園の隣です。
先生は96歳くらいでしたが、かくしゃくとしていらして、奥様も90才近いのに凛とした品格の高いお方でした。私が若かったせいもあり、お二人のお姿に感動してしまいました。平和記念像を制作した体育館のように広い部屋には、制作半ばの大きな彫像がありました。
先生は机に掛けて、義母への手紙をお書き下さいました。
先生から頂くお手紙や、葉書きはいつも毛筆で素晴らしく沢山あります。
その中のバラのお礼の手紙を久しぶりに出したので、アップしました。
先生の水茎の跡の美しさに惚れ惚れしてしまいます。
先生は1980年に名誉都民となられ、1987年に104歳でご逝去されました。長崎には記念館、井の頭自然文化園には彫像園があります。
昨年8月に、ビヴァルディの「四季」を歌うピレニーズとして写真をアップしましたが、油絵を描いて欲しいとお頼まれして8月に描いたマフィン君です。
現在は、マフィン君の命日にアメリカで生まれたシフォンちゃんが、一人娘として家族の中心になっていますが、私が送って届いたマフィンの絵を見て思わず泣けてきてしまった奥様の様子をみて、シフォンちゃんはやきもちを焼き、ご主人が散歩に連れ出したりしましたが様子が変だとお電話をいただきました。
マフィン君は、一人息子として、お正月には紋付きを着せて神社の前で写真を撮ったり、タキシードを着せたりめがねをかけたりしましたが、帽子をかぶせられるのはいつものことでした。普通ならすぐ手で取ってしまい噛んだりしますのに。
日本犬のコールが12歳で亡くなり、翌年の1970年にピレニアンと出会い、6月に我が家に45日の子犬を迎えロミと名づけました。
日本にピレニーズが入ってから10年目のことで数は少なく、飼い方を相談するのはブリーダーの犬屋さんハウスユキエ犬舎夫妻だけでした。
当時我が家の庭は広く、正面は日本式に作られて池があり石の橋がかかっていました。娘と写した橋の上での写真は生後5か月の頃です。
バラの消毒をしたときは、竹垣で仕切られた庭の北半分で、遊ばせました。
義母はしっかりした難しい姑女で、バラが虫や病気の被害にあうと私のせいにされて叱られましたので、私はバラに対して愛情が薄れて、継子扱いの気分になっていました。
そんなころ我が家に迎えたピレニ―ズ(当時日本ではピレニアンとよばれた)は犬好きの私の心を虜にしてしまいました。
私のピレニーズとの生活はここから始まり、38年間が流れたのです。