昭和22年の夏、市川さんは戦争未亡人のために編み物の講習会をひらきました。 市川房江さんの建物(ご自宅か、後の婦選会館)の前で、その関係者と受講者全員の写真です。母と私も入っています。
今朝(29日)の朝日新聞に「婦選の礎 ひっそり幕」 と題して、日本婦人有権者同盟は三月に七十年を超す歴史に幕を下ろしたと言う記事がありました。
女性参政権の獲得に尽くした故市川房江さんが設立した婦選会館が建てられる前の、昭和22年(1947年)の写真があるので載せました。
後ろの建物は、四谷か代々木辺りの焼跡に建てた木造の家で(後にバラックと言われた)講習会が開かれたのです。
母は結婚前から市川さんと友人だったので相談を受け、知人の編み物の先生と助手を福島からよび、1か月位我が家にお泊めして、「機械編みの編み物」の講習会のお手伝いをしました。
眼の前は見渡す限りがれきの焼け野原でした。
皆明るい笑顔で写っていますが、終戦後2年目の1947年は食糧難で
やみ米を買わないと生きていけない時代でした。
2月25日に埼玉県の八高線高麗川(こまかわ)付近で、満員の買い出し列車
の4両が転覆。買い出しの乗客184人が死亡、約800人が負傷。満員のため
にカーブを曲がり切れなかったことによる事故でした。
当時は列車の屋根の上にも大勢の人が乗り、デッキにぶら下がり列車は走っていたのです。
10月11日には配給生活を守った山口良忠東京地裁判事は栄養失調で死亡しました。
戦後の混乱期には嘘のような現実が沢山ありました。