タキさんの押しつけ書評
『“第三の銃弾”以降』
昨年の春(2016年4月)に逝ってしまった滝川浩一君を偲びつつ
これは、悪友の映画評論家・滝川浩一が個人的に身内に流している書評ですが、もったいないので転載したものです。
本来、スティーブン・ハンターの未読本が6冊もある事が判ったので、早速それらを読みたい所ですが、それ以上に“第三の銃弾”に関わるボブ・リー・スワガー主人公の過去作を読み返す事に気持ちが引っ張られました。
“極大射程”“狩りのとき”“ブラックライト”と読み返しました。後、“ブラックライト”と直接関わる“ダーティーホワイトボーイ”に明日からかかるつもりです。
前にも書きましたが、スティーブン・ハンターの小説の登場人物群の中で一番異彩を放つのは銃と銃弾です。ハンターに関して こんな論評が有ります 「ハンターはトム・クランシーが原子力潜水艦を使ってやった事(レッドオクトーバーを追え)を、ライフルを使って表現した」……う~ん、言い得て妙であります。ただ、忘れてはならないのが ハンターは銃を前面に置きながらも、そこに“人間”が屹立している姿をはっきり書き記していると言うことです。
しかも、作中でボブがこだわり続け、会話するのは……既に死んでいる父/アール・スワガーであり、ベトナムでスボッターを勤め、除隊を目前に倒れたダニー・フェン(しかもボブの妻はダニーの元妻)です。
もう何十年も前に死んだ人々の死の真相に迫って行く、それは在るか無きかの……しかし、注意深く見れば明白な過去の事実を丁寧にたどる旅であり、現代のオデュッセウス ある種の冥界巡りとも言えるでしょう。
この物語の中で人間も、さらに自身を取り巻く環境も大きく変化していくが、武器の本質は変わらない。ハンターは乾いた無機物に過ぎない武器が、それを手にする人間の心の有り様によって千変万化する様を追う事で人間心理の奥深くに切り込んで行く。一時期、大藪春彦にはまって 恐らく全著作を読んでいるが、ハンターを知った後では正直色褪せる。なんぞと書いてしまうと、あの世の大藪さんに狙撃されそうではあるが、やはり人物の厚みが違う。
得意の銃にしても解説の深さが違う……これは酷ってもんですねぇ、所詮 日本にいたんじゃ解らない事の方が多いですからね。私の武器への興味、なかんずく銃に対するこだわりは大藪作品を通して培われていますから、悪口はいけませんや。
ハンターの描く“スワガーサーガ”には通底する哲学が有ります、世界観と言い換えても良いのですが、評論家の関口さんが的確に書いています。「ヘラクレイトスは“戦争は万物の父である”と説き、ホッブズは これを人間行動に当てはめて“自然状態においては万人は相互に敵同士である”と結論。サルトルは更に進めて“二人の人間があいまみえるとき、必然的に戦闘状態が生じる。そこでは互いに相手の主体性を奪い取ろうとする。地獄、それは他人である。”と断じた。 これを世界の状況に俯瞰するには政治・経済的レトリックを重ねてみればよい。共産圏においては弁証法的唯物論/階級闘争であり、資本主義においては競争神話/個々人の私利追求の総和がいつの間にか公益になると言う幻想である。
サーガの登場人物群は、まさにこの原則上に生きていて、この時間軸上で古いアメリカ人と新しいアメリカ人が対峙する。 この新旧の対話の中で、新しいアメリカ人は自分が何者であるかを考え、古いアメリカ人は自らのアイデンティティを示す。
読者は読み進めて行くうちに自身のアイデンティティあるいはレーゾンデートルに思い至る。単なるアクションサスペンスでは有り得ない。
『“第三の銃弾”以降』
昨年の春(2016年4月)に逝ってしまった滝川浩一君を偲びつつ
これは、悪友の映画評論家・滝川浩一が個人的に身内に流している書評ですが、もったいないので転載したものです。
本来、スティーブン・ハンターの未読本が6冊もある事が判ったので、早速それらを読みたい所ですが、それ以上に“第三の銃弾”に関わるボブ・リー・スワガー主人公の過去作を読み返す事に気持ちが引っ張られました。
“極大射程”“狩りのとき”“ブラックライト”と読み返しました。後、“ブラックライト”と直接関わる“ダーティーホワイトボーイ”に明日からかかるつもりです。
前にも書きましたが、スティーブン・ハンターの小説の登場人物群の中で一番異彩を放つのは銃と銃弾です。ハンターに関して こんな論評が有ります 「ハンターはトム・クランシーが原子力潜水艦を使ってやった事(レッドオクトーバーを追え)を、ライフルを使って表現した」……う~ん、言い得て妙であります。ただ、忘れてはならないのが ハンターは銃を前面に置きながらも、そこに“人間”が屹立している姿をはっきり書き記していると言うことです。
しかも、作中でボブがこだわり続け、会話するのは……既に死んでいる父/アール・スワガーであり、ベトナムでスボッターを勤め、除隊を目前に倒れたダニー・フェン(しかもボブの妻はダニーの元妻)です。
もう何十年も前に死んだ人々の死の真相に迫って行く、それは在るか無きかの……しかし、注意深く見れば明白な過去の事実を丁寧にたどる旅であり、現代のオデュッセウス ある種の冥界巡りとも言えるでしょう。
この物語の中で人間も、さらに自身を取り巻く環境も大きく変化していくが、武器の本質は変わらない。ハンターは乾いた無機物に過ぎない武器が、それを手にする人間の心の有り様によって千変万化する様を追う事で人間心理の奥深くに切り込んで行く。一時期、大藪春彦にはまって 恐らく全著作を読んでいるが、ハンターを知った後では正直色褪せる。なんぞと書いてしまうと、あの世の大藪さんに狙撃されそうではあるが、やはり人物の厚みが違う。
得意の銃にしても解説の深さが違う……これは酷ってもんですねぇ、所詮 日本にいたんじゃ解らない事の方が多いですからね。私の武器への興味、なかんずく銃に対するこだわりは大藪作品を通して培われていますから、悪口はいけませんや。
ハンターの描く“スワガーサーガ”には通底する哲学が有ります、世界観と言い換えても良いのですが、評論家の関口さんが的確に書いています。「ヘラクレイトスは“戦争は万物の父である”と説き、ホッブズは これを人間行動に当てはめて“自然状態においては万人は相互に敵同士である”と結論。サルトルは更に進めて“二人の人間があいまみえるとき、必然的に戦闘状態が生じる。そこでは互いに相手の主体性を奪い取ろうとする。地獄、それは他人である。”と断じた。 これを世界の状況に俯瞰するには政治・経済的レトリックを重ねてみればよい。共産圏においては弁証法的唯物論/階級闘争であり、資本主義においては競争神話/個々人の私利追求の総和がいつの間にか公益になると言う幻想である。
サーガの登場人物群は、まさにこの原則上に生きていて、この時間軸上で古いアメリカ人と新しいアメリカ人が対峙する。 この新旧の対話の中で、新しいアメリカ人は自分が何者であるかを考え、古いアメリカ人は自らのアイデンティティを示す。
読者は読み進めて行くうちに自身のアイデンティティあるいはレーゾンデートルに思い至る。単なるアクションサスペンスでは有り得ない。