堂本印象は明治24年、京都御所の西に居を構える「賞菊」という造り酒屋の三男として生まれました。
16才の時、5代目である印象の父の代に経営困難に陥り、まもなくその父も死去したため一家は波乱万丈の生活を余儀なくされましたが、
印象は絵を描きたい一心をどうすることもできず、母や兄弟の協力を得て画家の道を歩きはじめました。
印象といえば
柔らかい線と色彩、鷹揚に画風を変化させた画家。
というイメージを長く持って参りましたが、この作品に出合い、
印象の評価がこの抽象画に高いということ
また、なぜ印象が抽象画にたどり着いたのだろうか?ということを
考える機会をいただいて、そのイメージを変えることになりました。
画家の言葉ーーー
刻々と燃え続ける燈火は暗黒の闇を照らし、私達の心に明るい希望をあたえる
しかし、その灯火はまた刻々油が燃え減ってゆき、消滅しつつあるのである。
人生とはあたかもこのようなものに似ている
暗さを克服して光明に輝くことの喜びは、やがてそれが消失することの悲しみで
なければならない。
画家の制作の喜びは、刻々に進んでゆく制作過程の現実を省みつつ、それが喜びであるとともにその喜びが制作の完成と共に減尽してゆくという悲しみをあわせ持っているのである。
もしそのようなものであるとすれば、今度は全く譬喩でなしに、現実の問題として、我々は刻々に移り行く現在、現在、現在ー未来でなく過去でもないその現在に全生命を打ち込んで生きなければならない。そこに人生の深い真意義を探求することが望まれるのではないだろうか
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「喜びが悲しみでなくてはならない。」
この なくてはならない という言葉に私は印象の画業のすべてを観る思いがし、感動します
「喜びは悲しみだろう」「喜びは悲しみである」は簡単に発することができたとしても
「悲しみでなくてはならない」は、そのうちに生きる実感、諦念がなければ選び得ない
言葉だと思えるのです。
芸術に生きることの意味を印象はきっと若い頃から自らに問い続けたのでしょう。
そうすることが、画家になることを許してくれた家族にたいする印象の責任だったのかもしれません。
その目で印象の画集を見直してみると、
淡い優しい線と色調は、すべて精神的、宗教的であるということに気がつきます。
昭和27年、ヨーロッパ旅行を終えた印象はその画風をガラッと変化させました。
ある種の虚無感さえ感じさせる作品が生まれ、
そしてそののち、それを払拭させるように昭和30年代、60代半ばより、抽象画を
描き始めるのです。
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古びないということはそれが永遠に新しいということなのではないだろうか
いつも清新であるということ、
新しいことのみが必要であるといふことの宿命を芸術はみなもっているのである
新しいということは真実の芸術、真の創造たることの証左であり、
生命的に力に生きることを示し、健康であることですらあるのである。
理想の芸術があるとすればそういうものだろう
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印象は日本画の抽象の世界に挑み、その世界に初めて画家としての自分を自由に解放できたように思えます。
ある時には書家の書のような熱情をもち、
あるときには東洋の宗教画といえるような静けさをもち、
印象の抽象画はますますその芸術性を深めていきました。
描きたい一心の若い日の希望を、一生の画業を通し、実現、現実化した印象の
50年前のこの抽象画を目前にし、さらに新しいものを感じとることができるかどうか?
画家とともに、観る側の私たちもまた日々試されているように感じます。
※堂本印象の作品は納品のため画像を削除させていただきました。