今回の山口薫展では、私なりの勝手な興味、見方で作品をご紹介してみようと思っていました。「何をおっしゃる。。いつもそうじゃないですか?」と皆様のお声が返ってきそうですが、割と真剣にそう考えていました。
山口薫については言葉の不要な画家、その作品たちだと思っていますが、「思想」という観点から作品を見たいと思っていたのです。
優しい、画商の無茶な注文をも断れない画家。
ロマンチスト、センチメンタルという言葉が似合う画家。
そういった表面的な捉え方では、薫の作品を捉えきられないと感じていたからです。
その意味で、私個人にとってはガッシュの「いのり」という作品は色々な刺激を与えてくれました。
今日、全画集にこんな作品を見つけました。1952年位の作品とあります。
(いのりの制作年代はわかりません)
一般の油彩画にはよくあるタイプの作品、デザイン的な作品かもしれませんが、薫の描く、この女性たちのお顔は怖いくらいに真剣で、なぜか私の心に刺さります。
山口薫が深酒を始めたのは30代に入る少し前、最初の結婚に失敗したころだと記述がありました。
親の反対を押し切っての結婚生活はわずか2ヶ月で破綻。
薫はその出来事に憔悴しきり、そのまま実家での療養を余儀なくされました。
また皮肉にもその頃から画家としての山口薫の評価は高くなるとあります。
この画集の掲載文によると、その頃山口薫はドイツ・ロマン派の哲学者、詩人ノーヴァリス「断章」、スイスの哲学者で詩人のアンリ・フレデリックアミエル「アミエルの日記」、アリルランドの小説家・詩人のジェイムズ・ジョイス「ユリシリーズ」、そして後にヘルマン・ヘッセに心酔するとあります。
残念ながら、私はヘッセの車輪の下を読んだ事があるくらいで、これらの書物に触れたことはありませんが、ネットなどで断片的な文を拾わせていただくと超現代的で難解な思想、或いは大変純粋で崇高な、それこそ「敬虔な」という言葉の似合う作品たちだと感じました。
色彩は、いわば物質と光の中間状態でありー光になろうとする物質の努力ーそれとは逆に物資になろうとする光の努力ーである。
性質とはすべて、上記の意味でー屈折した状態なのではないか。
魂の座は、内界と外界が触れあうところにある。内界と外界が浸透し合うところではーー浸透するすべての箇所に魂の座がある。
上記はドイツのノーヴァリス「断章」の中の文をネットで拾わせていただいたものですが、これほど短い文章の中にも
山口薫の作品の世界が十分に感じられ、大変感動をいたしました。
決して一方向的ではない形のありか。表現。
溶け合う、浸透し合うという言葉は、山口薫が興味を持っていたとされる松尾芭蕉や西行法師の歌や俳句の世界にも通じるものがあると感じます。
勿論、美術史的な画家としての思想もわきまえていたと思いますが、他の洋画家が仏教的な日本思想に近づいた印象に比べ、薫は西洋化の根拠に西洋的は思想、けれど大変東洋よりな西洋思想にその答えを探そうとしていたと私的には理解できました。
単に思想を絵にするというだけでは言い切れない、この画家の苦労の深度がやっと今私の実感として捉えられたように感じています。
絵でそれが表現できるのだろうか?という単純な疑問です。
みなさまにお伝えするにはまだまだ山口薫という画家に対する想像が浅いように感じますが、とりあえず「ここまで私なりの解釈は進んでまいりました」という言い訳をさせていただきました。
今日の名古屋は結局1日雨でした。
薫の竹の生えているお庭にはきっと雨が似合っただろうなぁと今想像しています。
また新しい作品についても書かせていただこうと思います。
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