早速!カタクリのおひたし!
シャキシャキしていて、ほのかな甘みがあり、とても美味しくいただきました。
ただ、ここにかつお節やお醤油を添えてしまうとその甘みが消えてしまいそうで
結局塩ゆでのままとまたお吸い物に浮かべていただきました。
カタクリの群生する場所では、カタクリは春の野草として普通に食べられているそうです。
灰汁もまったくなく、紫が綺麗なので、これからも入手できるときはお料理に使いたいと思いました。
器は瀧川恵美子さんの鼠志野四方向付です。
早速!カタクリのおひたし!
シャキシャキしていて、ほのかな甘みがあり、とても美味しくいただきました。
ただ、ここにかつお節やお醤油を添えてしまうとその甘みが消えてしまいそうで
結局塩ゆでのままとまたお吸い物に浮かべていただきました。
カタクリの群生する場所では、カタクリは春の野草として普通に食べられているそうです。
灰汁もまったくなく、紫が綺麗なので、これからも入手できるときはお料理に使いたいと思いました。
器は瀧川恵美子さんの鼠志野四方向付です。
清明も末候、「虹始めて見る」の頃となりましたが、名古屋は小雨がふり肌寒い一日です。
今日は佐橋が東京へ出張ですので、私一人の店番。
店を閉めた後に急いで夕飯の支度をしなくてはいけないので、朝のうちに高島屋さんにいってお野菜を買ってきました。
デパートさんは時々珍しい野菜を売るので面白く、ぐるぐるめぐります。
今日はこれ!!をみつけました。
おわかりになりますでしょうか??
「かたくりの花」です。
いつかカタクリの花の群生地を訪れたいとずっと思っていましので、あっ、かたくり!!と
見てすぐわかったのですが、はたしてこれは食べ物なのか??
表示には かたくりの花 198円 天ぷら、おひたしにどうぞ。
とありますが、どこからどこまでを食べるのか??
是非食べてみたいと思いましたので、店員さんに聞いてみました。
その方は最初花を捨てて茹でるとおっしゃいましたが、「ちょっと待ってください」と奥に入っていかれ
しばらく待つと、「花についた汚れを払って頂ければ花ごと全部食べられそうです」と教えてくださいました。
どんなお味なのでしょう??
薬効はあるのかな?秋田産となっていましたが、秋田の方達は普通に春に召し上がるのかしら??
198円で、すでにしっかり楽しませて頂いた感じです
茹でてしまうと、ほんのひと口か二口で終わってしまいそうな量ですから、息子に見せる前に私がまず食べてみなければ!
またご報告いたしますね。
日曜日に
桑山美術館 さんの「かわいい!日本画」ー可愛らしさのツボを探ろうー展と 名都美術館 さんの 高島屋資料館所蔵「日本美術と高島屋」交流が育てた秘蔵コレクション展に伺いました。
桑山美術館さんは、個人コレクターでいらした桑山清一さんのコレクションの寄贈のもとに昭和56年に開館した私立美術館さんです。
私は初めて伺いました。
春、秋、新春の季節ごとの開館で、規模も大きくてはいらっしゃいませんが、
所蔵作品をテーマごとに展示され、私達のように近代日本絵画がお好きなかたには,
静かに、のんびりと、お安く作品が拝見できるよい美術館さんだと思います。
今回は かわいい! ということで 先日お邪魔したメナード美術館さんのように動物がテーマの作品が多くみられました。
私は自分の好きな関雪の「崖上双猿図」、「月下狸乃図」、印象の「花兎」それから小川芋銭の「羅漢 龍虎」が良いなぁと思いました。
次回は是非玉堂、春草、御舟、観山などを拝見したいと思います。
名都美術館さんでは高島屋さんゆかりの作品が展示されています。
錚々たる画家の顔ぶれ、またそれぞれの画家の力の入った作品。
やはり圧巻は大観の大作、蓬莱山(上の画像左)でした。大観81才の作品、
驚きの生命力です。
展示の会場にときどき現れるローズちゃん人形もとても可愛らしく楽しめました。
奈良に国宝信貴山縁起絵巻を観に行こうと思っていましたが、少し2人のエネルギーが足りず地元の美術館巡りに変わりましたが、
初めて拝見する作品に多く出会え、おもいがけず楽しく過ごせました。
地元の美術館さんにもこれから多く伺いたいと思います。
日曜日にメナード美術館さんい伺い
5月8日(日)まで開催の 「どうぶつ図鑑」 を拝見しました。
春休みとゴールデンウィーク中の企画らしく、お子さんでも楽しんでご覧になられるような
展示工夫をされていらっしゃいました。
先にご紹介した東京のモランディー展に結局佐橋とも出かけ、更なる感動を得ましたが
そうした厳粛なムードとは違い、リラックスした心地よい空間で作品を鑑賞しました。
ご覧になりにくく恐縮ですが、右上、脇田和の「窓にくる鳥」も出品されていました。
1973年制作、窓に見える人物の密度、鳥の華やかな羽は見応えがあり、同じタイトルでありながら
当店の作品と、少し作品主題の方向性が違うもののようにも感じました。
他に熊谷守一の数々の名品とともに、私の好きな海老原喜之助の作品と再会できました。
名古屋にもどってきてからは、お客様に教えて頂いたミモザを見にでかけました。
お知らせ頂いた先週より、たぶん花数は減っていたと思いますが、黄色がとても綺麗でした。
いよいよ百花咲きそろう「清明」の候となりました。
お花をみて歩くのも楽しみの一つですね。
堂本印象は明治24年、京都御所の西に居を構える「賞菊」という造り酒屋の三男として生まれました。
16才の時、5代目である印象の父の代に経営困難に陥り、まもなくその父も死去したため一家は波乱万丈の生活を余儀なくされましたが、
印象は絵を描きたい一心をどうすることもできず、母や兄弟の協力を得て画家の道を歩きはじめました。
印象といえば
柔らかい線と色彩、鷹揚に画風を変化させた画家。
というイメージを長く持って参りましたが、この作品に出合い、
印象の評価がこの抽象画に高いということ
また、なぜ印象が抽象画にたどり着いたのだろうか?ということを
考える機会をいただいて、そのイメージを変えることになりました。
画家の言葉ーーー
刻々と燃え続ける燈火は暗黒の闇を照らし、私達の心に明るい希望をあたえる
しかし、その灯火はまた刻々油が燃え減ってゆき、消滅しつつあるのである。
人生とはあたかもこのようなものに似ている
暗さを克服して光明に輝くことの喜びは、やがてそれが消失することの悲しみで
なければならない。
画家の制作の喜びは、刻々に進んでゆく制作過程の現実を省みつつ、それが喜びであるとともにその喜びが制作の完成と共に減尽してゆくという悲しみをあわせ持っているのである。
もしそのようなものであるとすれば、今度は全く譬喩でなしに、現実の問題として、我々は刻々に移り行く現在、現在、現在ー未来でなく過去でもないその現在に全生命を打ち込んで生きなければならない。そこに人生の深い真意義を探求することが望まれるのではないだろうか
ーーー
「喜びが悲しみでなくてはならない。」
この なくてはならない という言葉に私は印象の画業のすべてを観る思いがし、感動します
「喜びは悲しみだろう」「喜びは悲しみである」は簡単に発することができたとしても
「悲しみでなくてはならない」は、そのうちに生きる実感、諦念がなければ選び得ない
言葉だと思えるのです。
芸術に生きることの意味を印象はきっと若い頃から自らに問い続けたのでしょう。
そうすることが、画家になることを許してくれた家族にたいする印象の責任だったのかもしれません。
その目で印象の画集を見直してみると、
淡い優しい線と色調は、すべて精神的、宗教的であるということに気がつきます。
昭和27年、ヨーロッパ旅行を終えた印象はその画風をガラッと変化させました。
ある種の虚無感さえ感じさせる作品が生まれ、
そしてそののち、それを払拭させるように昭和30年代、60代半ばより、抽象画を
描き始めるのです。
ーーー
古びないということはそれが永遠に新しいということなのではないだろうか
いつも清新であるということ、
新しいことのみが必要であるといふことの宿命を芸術はみなもっているのである
新しいということは真実の芸術、真の創造たることの証左であり、
生命的に力に生きることを示し、健康であることですらあるのである。
理想の芸術があるとすればそういうものだろう
ーーー
印象は日本画の抽象の世界に挑み、その世界に初めて画家としての自分を自由に解放できたように思えます。
ある時には書家の書のような熱情をもち、
あるときには東洋の宗教画といえるような静けさをもち、
印象の抽象画はますますその芸術性を深めていきました。
描きたい一心の若い日の希望を、一生の画業を通し、実現、現実化した印象の
50年前のこの抽象画を目前にし、さらに新しいものを感じとることができるかどうか?
画家とともに、観る側の私たちもまた日々試されているように感じます。
※堂本印象の作品は納品のため画像を削除させていただきました。