つれづれ

名古屋市内の画廊・佐橋美術店のブログ

小林邸に思う。

2018年08月15日 | 日記・エッセイ・コラム

今年もお盆を名古屋で、我が家のご仏壇の周りをウロウロしながら過ごしています。

前述の小林秀雄邸の記事もウトウトしながら書かせていただきましたので、中途半端になってしまいました。

この小林邸の写真を見ながら、佐橋と私は、神奈川県にお住いのあるお客様のことを思い出していました。

洋館でいらっしゃいますが、小林邸と同じ趣のお宅をお持ちでいらっしゃること、またお求めになられた作品が大変繊細で、小林邸の梅原のパステル画のように美しかった印象が消えずに残っているからだと思います。

そして、何よりこのお客様がしばらく美術品から離れられるとお決めになられたと知ったからだとおもいます。



想いというのは伝わるものです。

昨夜ふと当店のメールボックスを自宅でチェックしておりますと、そのお客様から短いメールが届いていることに気づきました。


そして、そのメールが私にとってとても貴重なものでしたので、少しここに書かせて頂こうと思いました。

私達が休暇中であることにもご配慮くださったのでしょう。

「独り言をお許しください」とメールの最後に結んでくださいましたので、直接のお返事は控えさせて頂こうと思います。



頂いたメールには


「もう美術品は収集しない、美術には一切の関与はしないと決めているはずなのですが、貴社の吉田善彦の白毫寺と須田剋太の水墨画がほんの少しだけ気になります。」


と書いてくださっていました。



「ほんの少しだけ気になります。」


ふと、私はこのブログを書き始めたときの自分の気持ちを思い出しました。



商売というのはとても残酷なものです。売れるか売れないか。。「売れない」ばかりなら、明日にも私達は、店をたたまなくてはいけません。

ですから、お客様にお金をお出しいただくか?頂かないか?その境界線ばかりを意識し、考え、仕事をしていかなければなりません。

美術品をお金に変えていく。。またそれはそれで大変面白い作業でもあるのですけれど。。


ある時、美術品を楽しむということは、本来もっと繊細で、愉快なことであるようにも思えたのです。


ブログを通し、お客様にお願いしたい気がしたのです。




どうぞ、ゆっくり、時間をかけて、作品をお集めになってください。

長く、短い人生の、その時その時の作品との出逢いや、お別れ、

お求めになった作品も、ご予算やご家族の反対で諦めざるをえなかった作品との思い出もどうぞ大切になさってください。

そして、お求めになった作品をご覧になった時、諦めた作品を思い出された時、ほんの少しだけ私たち二人のことも思い出してください。

願わくば、、佐橋美術店が潰れない程度に、時折お買い物もなさってください。


そして、いつかどんなに小さなお部屋でも、一点だけでも結構ですので、ご自分だけの美術館をお作りください。

いま人気の美術館のように、豊富なご予算で急いで集めたコレクションのような味気ないものでなく、お客様が歩んだ人生の機微の感じられる美しいコレクションをお見せください。








須田剋太は京都や大阪で大変人気のある画家です。

荒々しく、ただ力で絵や書を描いた画家だと思われやすいのかもしれませんが

その作品には、芸術に1番大切な「無」の世界が感じられます。雑念がありません。欲がありません。

ですから、お茶席によく使われ、文化の成熟度の高い関西で人気があるということになります。

そんな作品の中でも寺の風景は楚々として、当店らしい選択の作品かと思っています。



吉田嘉彦もそういった意味で、やはり絵の中に「無」の間のある、ひとつ抜きん出た画家だと思っています。







少し気になるの「ほんの少し」が大変効いている作品の選択二点にやはり驚かせていただきました。

あるコレクションに打ちのめされたとおっしゃっていらっしゃいましたが、既にその振動をご自分で噛み砕き始められているのだと感じました

またそれをご自分の本当のご趣味か?「少し」吟味されていらっしゃる所が、楽しい。そして素晴らしい。

思いがけず、「少し気になります」の一言でとても幸せな気分にさせていただき、益々よいお休みになりました。

誠にありがとうございました。


お休みの間は絵を売らなくてよいものですから・・・(⌒-⌒; )

どんどんブログの記事が頭に浮かびます。また少しづつ書かせていただきますね。


お暑い毎日が続いています。どうぞお気をつけてお過ごしくださいますように。

※先のブログ、吉田善彦の記事で作品のタイトルに誤記がございました。訂正させて頂きお詫び申し上げます。

「百毫寺 、秋」→「白毫寺、秋」





















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旧小林秀雄邸宅

2018年08月14日 | 日記・エッセイ・コラム



お客様から、佐橋が画集や本を頂いて帰って参りました。

その中から装丁が私の好みのもの、タイトルから興味が持てる本をいくつか選び、読ませて頂いています。

小林秀雄の「真贋」は自分でも持っている本ですが、こちらは単行本で見開きに小林秀雄の旧邸の写真が掲載されていて、とても楽しめました。


本の写真が撮りにくいので、鴨の文鎮をのせました。
お見苦しく申し訳ございません。



小林秀雄は昭和23年〜50年まで鎌倉、鶴岡八幡宮の裏手に住んでいらしたそうです。

玄関には、弥生小壺に白山吹をいけて。額は奥村土牛の桜を。





応接間より庭を見る。遠く材木座海岸や伊豆大島が望め、かつて正面には東慶寺の墓石・五輪塔があった。




応接間
李朝白磁大壺
絵志野香炉(バーナード・リーチ作)
信楽鬼桶水指
鉄斎画軸

信楽水指 と梅原龍三郎パステル画


骨董を主に集められたと聞いていますが、絵画のご趣味もよく、ご自分のお宅の環境や間取りをよくお分かりになって美術品をお飾りになっていらしたのですね。



李朝や古信楽にバーナード・リーチや梅原のパステル画を持ってくるセンスは素晴らしいなぁと思います。


梅原の価格の高い油彩画をここにいくつ並べても、きっと美しくはないのですね。

建物、お庭(風景)、お部屋の間取り、家具、そして美術品。

そのバランスをいつも考えながら暮らしていくのが、最高の贅沢なのだろうと思えます。





























コメント (3)
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岸田劉生展 豊橋市美術博物館

2018年08月11日 | おススメの展覧会、美術館訪問


もう1週間前になってしまいましたが、県内豊橋市美術博物館さんに伺い、岸田劉生展を拝見して参りました。


岸田劉生展は、もう何度も色々な所で鑑賞させて頂いて来ました。

若い頃は「岸田劉生か、見ておかなくちゃ」という気持ちが強かったと思いますが、最近では、やっとといえば、やっと、、

あぁ、岸田劉生展、見に行きたいなぁ〜と思うようになりました。


色々な角度からのアプローチにより劉生展は多く開催されて来ましたが、今回の展覧会はとても鑑賞しやすいと感じました。

年代を追っているせいもあるでしょうけれど、それぞれの時期の作品数、質のバランスに大変優れていると感じたのです。

私はこの頃、コレクター様や画商と同じように、展覧会を開かれれる学芸員の先生方の「熱量」というものに興味を持ちます。

作品の集められ方、展示のされ方によって、先生方がどれほどその作品たちにご興味をもたれているか?
どのようにその画家を解釈されているか?がよくわかるのです。

美術館さんにもご予算の問題があり、入場者数で勝負をなさらなくてはならない展覧会ももちろんお有りでしょうけれど、先日の長谷川利行展や、今回の劉生展のように、切口の鮮やかな展覧会はやはり「もう一度見てみたい」と思わせてくれる魅力を持っています。





この東京国立近代美術館蔵の「落合村の新緑」の美しさに目を奪われました。

教会に熱心に通い、絵を独学で学び始めた劉生16歳の作品です。

図録の写真でご覧になり難いかと思いますが、実作品は、色がもっと綺麗でした。

やはり劉生はスケールが大きいのです。

既に劉生が劉生たる孤独をこの風景画は内包し、とても美しいと感じられます。




劉生が亡くなってしまう2年前、36歳の作品です。

私は以前からこの作品が好きです。

この展覧会の副題にも「実在の神秘、その謎を追う」とありますが、その「求め」を一瞬たりとも怠らなかった劉生の短くも長い画業に、瞬間の安心、得心をこの作品から感じるのです。

日本画と油彩画の和解。劉生の技術の達成度。

この絵を見ていると、実在の重みに劉生は1つの解決を見出したのではないかとさえ思えます。



劉生については、面白い資料を見つけましたのでまた後日書かせていただこうと思います。

お暑い中ではありますが、このお盆の時期に、この劉生展はピッタリではないかと存じますので
機会がございましたら、ご鑑賞ください。



岸田劉生展 実在の神秘、その謎を追う

この展覧会は豊橋市美術博物館さんで9月2日まで、
その後、ともに企画の中心になられたふくやま美術館さんでも9月15日〜11月4日まで開催されます。HPなどでお調べくださり、お近くの展覧会にお出かけいただけたらと存じます。







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絵葉書

2018年08月09日 | 日記・エッセイ・コラム



竹久夢二の作品を扱わせていただく事は、ほとんどありませんが、

絵葉書などその雰囲気を楽しませていただくのは大好きですので、時々竹久夢二伊香保記念館さんのHPを覗かせて頂いては、絵葉書のセットを送って頂いています。

今回はこども絵シリーズをお願いしました。

手許に届き、ニタニタしながら時々絵葉書に見入っているのですが、

いざ使わせて頂こうと思っても、これをなかなかお客様にお送りすることは出来ず。。

また小さなお子さんや、同世代のお友達にこれをお送りして、この微妙なニュアンスに何か誤解を受けてしまうかもしれない。。と心配になってしまったりするので。。

結局引き出しに仕舞いっぱなしということばかりになります。

絵葉書というのは、自分が気に入って求めても、いざ使う段になると使いにくいということが多々ありますね。



引き出しの中に仕舞いっぱなしになっている夢二の絵葉書を時々出して、一、二枚、安心して使えるのは
唯一、相模原にいる甥と姪にお便りを出す時だけです。

いつのまにか立派に成長して、高校三年生と中学三年生の受験生となり、今頃は一生懸命お勉強をしているかと思いますが、この二人なら、この世界観を大らかに受け取って楽しんでくれるように思うのです。

許し合う優しさといえばいいでしょうか?

「夢二のハガキを出せる」という誠に勝手な理由からですが(^^;;この甥と姪を育ててくれた妹と義弟に心から感謝しています。

さて、次はどのハガキを選びましょうか?








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残暑お見舞い申し上げます。

2018年08月06日 | 日記・エッセイ・コラム



バスを待つ間に、飛び込んだ本屋さんで見つけた本です。

読書の苦手な私でも気軽に読めそうだと思い求めてみました。




けれど、お仕事に忙しいビジネスマン向けとあって、序文に全体の趣旨をまとめてくださっているページがあり、これを読んでしまったら、元々カタカナの苦手は私はもう全くページが進まず困りました(^^;




人工知能の精度があがっていくに従い、ビジネスの世界では益々直感や感性による決断、リーダーシップが不可欠となるだろう。

それには、美意識を磨くこと、真・善・美のバランスを得ることが大切だということで

グローバル企業が世界的に著名なアートスクールに幹部候補生を送り込んでいる、

アメリカやイギリスの知的専門職が早朝のギャラリートークに参加しているのは

単なる教養を身に着ける為ではないだろう 

などの内容と簡単には要約できるかと思います。





筆者である山口氏は最後に

「物質主義・経済至上主義による疎外が続いた暗黒の19~20世紀が終わり、新たな人間性=ヒューマニズム回復の時代が来たと表現されるべき転換が起こりつつある。」と書かれ、

その兆しの一つが多くの組織や個人によって取り組まれている「美意識の復権」に関する取り組みであり

今の世の中の通説とされる「生産性」「効率性」といった外部の物差しでなく、

「真・善・美」を内在的に判断する美意識という内部のモノサシに照らして、自らの有り様を読者に考えて頂くきっかけになればよいと

結ばれています。

 

 

いつもシーソーに乗っているように、どちらかに傾くとその破調を食い止めようともう一方にグンと重いおもりを乗せる。

人はその繰り返しで歴史を築いてきたのだと思います。

そのシーソーの揺れ幅が大きくなって、どうにもならなくなると・・・

この猛暑続きや、雨や台風の災害などと同じように、人間の世界では戦争が起きたり、思わぬ病気が蔓延したりするのだと思えます。

 

けれど、果たして


美意識とは鍛えられるものでしょうか?

 

悲観的な私は、この本を読ませて頂きながらそんな疑問を持ち続けました。

 

美意識とは私達それぞれの体に、祖先や、祖父母、父母が育んできてくれたものではないでしょうか?

その美意識によって、私達は食べる物を選び、住まいを選び、一生の伴侶を選び、どのような仕事をするかを選び、またどのような経営をするか方針を立てることが出来るのだと思うのです。

 

資本主義の世の中では、利益や権力を追求することこそ「男の美」とお考えの方でしたら、その集大成として世界中で話題になる高額な作品を世界有数のオークションで落とすという行為によってその美意識は満たされることでしょう。

 

物を集めることが大切とお思いになる方の美意識は、多少その場が汚れても、また真贋の境界線が多少甘くても出来るだけ多くの美術品をお部屋やおうちに並べるという行為こそ蒐集の目的だとお考えになるでしょう。

 

そしてどんな美意識にもこたえてくれようとするのが、真の美術品だと思えます。

 

一口に「美意識の復権」といっても、日本において今更武士の時代の美意識を取り戻すことは不可能ですし、

現代に生きる私達の美意識は、もはや村上隆であり、奈良美智であり、草間彌生であったりするのです。

美意識の復権ほど難しい問題はないように感じます。

 

 

 

わたくしは、こうして沢山の絵画や美術品に触れながら、

自分の美意識を鍛えているという感覚を持ったことがありません。

どちらかというと幼い自分に戻っていく感覚。

 

遠い昔、寝る時に蚊帳をつって中で団扇を仰ぎながら、子守歌や絵本を読んでくれたり、

髪をとかしてくれたり、洋服を選んでくれた母の思い出。

大工の父が大けがをして、家に帰ってきたときのあの赤い、黒い血の色。

父が釣ってきた大きな鯉が盥に泳ぐときのなまめかしい鱗の強さと美しさ。

大人になって失いかけた、そうした記憶、情感を辿る作業を今になってただひたすらしているように思えるのです。

そして、その感覚、美意識を思い起こさせてくれるのが、私の場合、この本の中で山口氏も述べられているように詩などの文学性や哲学性を多く孕んだ美術品、特に、日本近代絵画であるということなのだと思います。

 

 

 芸術にふれることによって、

わたくしに父母や祖父母が育ててくれた価値観を、自ら感じながら、

佐橋美術店をとおし、私だけにできることをこれからも探してゆきたいと願っています。

 

そして、価値を近く、同じくするお客様がたとご一緒に美術品をながめながら、

「ああでもない、こうでもない」と笑いながらお話しする時間を大切に生きていきたいと思っています。

 

 

 

 

最後にこの本の中の、将棋の羽生さんのお言葉をここに書かせていただきます。

 

美しい手を指す。

美しさを目指すことが、結果として正しい手を指すことにつながると思う。

正しい手をさすためにはどうするかでなく、美しい手をさすことをめざせば正しい手になるだろう考えています。

 このアプローチの方が早いような気がします。

 

羽生善治「捨てる力」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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