つれづれ

名古屋市内の画廊・佐橋美術店のブログ

高村光太郎 「美について」

2018年08月16日 | 日記・エッセイ・コラム



お盆行事を今年も無事に終えることができました。お家の片付けも、また少し進めることができました。


先日ご紹介した本の中から、高村光太郎の「美について」を大変興味深く読んでいます。


特に先日の「世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか?」を読み終えた後に、この本は読ませていただくと猛反省、納得させられる部分が沢山あり、感激いたします。


以下 「国民的美意識」というタイトルの文章をそのままここにご紹介致します。





国民的美意識

先夜ラジオの朗読放送に耳を傾けていると、大陸を進撃する皇軍の兵士の一隊が、ふと路傍で見つけた梅の花の香りに歓喜の声をあげ、さらでも重いであらう背嚢や胸に次々と梅の枝や杏の枝を皆が挿し、その一隊はまるで花の行列のようになってしまったという條をきいて、涙をさそはれるほど感動した。


なるほど此れは真情であらう。

人は常に美に憧れる。このひと枝の梅花の香りは行軍に疲れた兵士などの脚に、一種非目前的なる精神の内側から来る新しい力を與へた。


この非目前的なのが、美の持つ影響力の特質である。

人は毎日の生活に悩む。毎日の生活とは即ち目前処理の生活である。
人はその累積の中に埋もれてその生活そのものに内在する非目前的の一面を忘却する。

そしてやりきれない鬱積を打ち払うために、手取り早く、低い娯楽や、演芸物などの爆笑とか危険感というものを漁って一時をごまかす。

実は何にも満足が得られたのでない。結局そういうものに馬鹿にされたような気持ちをいつでももっているのである。心の底では、馬鹿にするな、と思いながらまたつい見るのである。

見ざる得ないほど毎日が渋く、にがく、乾いた目前処理の生活ばかりなのである。

人は一度美にはぐれてしまふと、自己に内在する美意識の活動、即ち芸術精神そのものの存在をまるで棄てて顧みず、商品となり、さういふ人達の所有欲に応ずるように作成せしめられる。

書画骨董の鑑賞が必ず価格の興味を伴うのはその故である。十万両ときいてなおさら一幅の書画がよくなるのである。値段を予想しない鑑賞に気乗薄なのが、書画骨董の特質である。

純粋な芸術意識と骨董意識との差はそういうふうに際どいところによくあらわれる。

自己に内在する美意識が活動しないから、美に関する限り此の世は人まかせになる。服飾の意匠は商人の手に左右され、街上の建築は便利と思いつきで勝手放題な形をとり、広告はますます悪どくなる。

現世の眼にうつるもの、耳にきこえるものが皆真の美とは性質を異にするもので埋められ、しかもそれを美と同質なものであるかのように欺瞞される。

それを何だか変だとすら思わなくなる。
むしろどうだっていい無関心のままに、あてがい扶持で平気でいる。

こういう状態が長く続けば一種の庶民的虚無感が広がり、迷信が力をふるい、人心は荒れすさび、しまいには敗北主義というようなものさえ擡頭しないとも限らない。

国民各自の中に埋没している美意識の自主的活動、即ち藝術精神の覚醒が、今日の場合芸術界に於けるどのような問題よりも緊要なのは、それが国民生活の最も根本的な救世的意味を持っているからである。

藝術精神とは、国民各自の外界に存在するものでなくて、国民各自の中に在って、毎日の目前的生活処理そのものを即刻即座に非目前的に自己みづから立ち上がって觀じ味ふことの出来るようにさせる精神力なのである。

生活に苦しみ、病に悩みながら、その苦しみ、悩む自己をもう一歩非目前的な世界から觀じ味はふことの出来る境地が芸術の心である。

それはまったく生活と同一体であって、しかも生活にふりまわされず、かえって生活を豊かにし、ゆとりあらしめる。非常の場合に驚き慌てない心を得させる。芸術精神は宗教のように現世から解脱させるのでなく、あくまで現世のままに味到せしめる。味ひ、愛し、到るところを美に化してしまうのである。


世人一般をこの芸術精神覚醒に導き、国民的美意識をまず日本国土の中に遍満させようと努力することが今日大切である。あらゆる施設も方策もこの方向を取らねばならぬ。日本人は古来わりに他国人に比すれば芸術精神を多分に持っている民族のように思われるから、その方向をたどっていれば案外不可能ではないかと思われる。

和歌や俳句の徹底的普及も有力な影響を与えるものと思う。
その他あらゆる意味で芸術作品、建築物その他を国民自身のものであると思わせる親近感に導く必要がある。展覧会などもこの建前から開催せらるべきことは言うまでもない。芸術作品と国民とを結びつける気運を作り出す方策などは尚今後の緻密な研究と思いきった実行を要する。

昭和16年1月


高村光太郎のこの深く、豊かな経験と思想、優しさが、近代日本美術の魅力の全てであろうと思えます。

80年近く前のこの主張から、今を生きる私達に何が出来ているのだろうと考えます。

書画骨董屋である私達2人にまた多くの宿題を頂いた思いです。



近いうちに、この高村光太郎の同じ著書からご紹介したい文章をもう1つだけ、取り上げさせていただこうと思います。









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