19日に、岐阜県立美術館さんにお邪魔して参りました。
丁度、金曜日は夜8時までの開館でいらしたので、のんびりと涼しく出かけることができました。
さよなら・・と題された所蔵名品展を開いていらっしゃるのは、空調設備や照明器具の老朽化に伴う改修工事の為、1年の間休館されるからだとお聞きしました。
多数の所蔵作品の中から、学芸員の皆さんがお選びになれた作品達とあって、大変見応えのある良い展覧会でした。
やはりルドンの作品群には目を奪われます。この2点は共に出品されていますが、どちらも大変美しい作品でした。
「悲しさ」
悲しそう。悲しがる。 そして 悲しい。
悲しそうな絵、悲しがっている絵。そして悲しい絵。
この違いを楽しむことで、本来の画家の技量や思想の深さがわかるような気がします。
ルドンには、悲しそうも、悲しがるも超える物がきちんと備わっていると思えます。
時にはその悲しみのなかで、微笑んでしまうほどの余裕ぶりです。
今回拝見できた作品の中から4点を。
これはもう好みの範疇かと思いますが、大好きな川崎小虎の作品。「うどんげの花を植える女」
小虎の素晴らしいのは、この小虎ワールドを一生貫き通したことです。そして、この世界にこそ案外「真理」の秘密が隠されているのではないかと思えるところです。
東山魁夷が義父として尊敬してやまなかった小虎の作品。また小虎展があればどこでも見にいきたいと思います。
土牛の「犢 こうし」は、作家33歳の時の作品です。もうすでに「土牛」が出来上がってしまっていることに改めて驚きました。本当に綺麗な作品でした。
劉生と守一の自画像。
蝋燭を使う守一と大きく自分のみ描く劉生。
この2つの作品がちょうど並べて展示されていますので。。
例えば長寿と短命、
生存中の作品の売れ具合など比較して、考えさせられることが沢山有りました。
先日書かせていただいた「劉生のスケールの大きさ」についても私は更に感じることが有りました。
今回展示はありませんでしたが、もし、私が守一作品を買うのなら、これかな?と思い絵葉書を買わせていただきました。
本当の守一は結局誰も知らないのではないかと思うのです。
守一自身が述べているように、「逃げてきた」部分の多い作家であるように思います。
私自身の守一作品への評価は年々変化してきています。
これからどうなっていくのか?歳をとる楽しみの1つでも有ります。
今回残念ながら拝見できなかった重要文化財の山本芳翠 の明治13年の「裸婦」です。
これは、美術館さんならではの作品ではないかと思い、一度ぜひ拝見したいと思いました。
同じ岐阜県内、多治見市の岐阜の現代陶芸美術館では26日まで「驚異の超絶技巧!」展も開かれています。時間がなく私たちは伺えませんでしたが、こちらにもぜひお出かけいただけたらと思います。