あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

越生の龍穏寺を訪ねる(埼玉)

2008-05-17 21:44:00 | Weblog
 今日午前、整形外科に行き、超音波治療を受けてきました。
腰痛はだいぶよくなりましたが、同じ姿勢を続けていると、体
を伸ばすのが少しきつくなるので、注意しています。

 撮ったままになっていた画像の中から、4月30日に埼玉県
越生町(おごせまち)の五大尊にツツジを見に行った後に回っ
た、龍穏寺(りゅうおんじ)の様子をアップします。

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 2008年4月30日(水)
 =曹洞宗 龍穏寺(埼玉県越生町)=



 龍穏寺は、埼玉県越生町でも人里離れた山間の集落・龍ヶ
谷にあり、普段は訪れる人も少ないようです。しかし、境内
には以下のような説明板が立っていて、由緒ある寺であるこ
とが分かります。

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 龍穏寺は、永享の頃(1429~41)に将軍足利義教が上杉
持朝に命じて、尊氏以来の先祖の冥福と戦乱に果てた人々
の霊をとむらうために創立したといわれる。

 しかし、その後兵火にあい、文明4年(1472)に太田道真、
道灌父子によって再建された。

 天正18年(1590)には、豊臣秀吉からご朱印100石を受
け、次いで慶長17年(1612)には徳川家康から、曹洞宗の
関東三か寺を命ぜられ、国内二十三か国の曹洞宗の寺院の
世話をした。

 また、江戸に寺地を賜り住職はそこに常住して公務を勤めた
という。

 宝暦2年(1752)に火災により堂塔を焼失し、天保12年
(1842)に再建した。しかし、大正2年(1927)の火災により、
山門、経蔵、熊野社を残して全焼し、現在の本堂は戦後再建
したものである。
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 車道に近い境内は、シャガが花盛りでした。


 天保12年再建の堂々たる山門。


 山門を入ると、境内は豊かな新緑に覆われていました。




 本堂への石段下にある太田道灌像。新宿に移る前の有楽町
に東京都庁があった頃、似たような道灌像があったことを思い
出した方もおられるのではないでしょうか。


 太田道灌像の近くには、道灌が築城した江戸城外堀の石が
移設されていました。


 太平洋戦争後に再建されたという本堂です。


 本堂左手の斜面を上がると、太田道真、道灌父子など
太田一族の墓地があります。


 境内のみずみずしい新緑。

 紅葉時のように真っ赤なモミジと、緑のモミジがあるのは
不思議ですね。


 大正2年の火災で焼け残った経蔵。

 経蔵の壁面四周には、みごとな彫刻が施されています。




 経蔵の南側には、はやり焼失を免れた熊野社があります。

 この熊野社の周囲を飾る木彫も精巧なもの。一見の価値
があります。


 こんな山奥に、こんなりっぱなお寺が…。県道30号など
近くを通過する機会がありましたら、訪ねてみることをお勧
めします。



 
コメント (2)
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