源実朝の『金槐和歌集』に収められた歌の漢詩への翻訳に挑戦しています。今回の対象は 下記の「もののふの……」である。《……この歌に限っては名詞極めて多く、助辞は「の」が3字、「に」が1字、動詞が2個。「かくの如く必要なる材料を以て充実したる歌は実に少なく候。」 》
《……実朝は、材料が極めて少ない万葉の歌を擬しながら、「一方にはかくの如く破天荒の歌を為す、その力量実に測るべからざる者有之候。」》と、子規が絶賛している実朝の歌である(正岡子規『歌よみに与ふる書』に拠る)。
大勢の武人たちが四方から遠巻きにしつゝ獲物を囲い込んでいく、勇壮な巻狩り、その始まる前、各人箙(エビラ)に矢を差し、整えている。草木の葉がそよと揺れて、ほんの束の間、降り出した霰が籠手に当たって、その弾く音が耳に届いた。漢詩は、このような情景を想い描いて書いてみました。
もののふの 矢並(ヤナミ)つくろふ 籠手(コテ)の上に
霰(アラレ)たばしる 那須(ナス)の篠原(シノハラ)(源実朝『柳営亜槐本金槐和歌集』・冬)
(大意) 武将が狩装束に身を包み 矢を整えている。その籠手の上に霰がこぼれ散って音を立てる。ここは武士たちが勇壮に狩りを繰り広げる那須の篠原だ。
註] 〇矢並つくろふ:矢をいれた箙(エビラ)の中の矢並びを次の獲物に備えて整えること; 〇籠手:肩から腕を防御するための防具; 〇霰たばしる:霰が大きな音を立てながら跳ね返っているさま; 〇那須の篠原:下野国の北部で那賀川の上流に広がる広大な原野、‘篠原’は篠(シノ)の生い茂っている原。(三木麻子『源実朝』に拠る)
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<漢詩>
霰時圍獵 霰時の圍獵(カコミリョウ) [去声七遇韻]
那須篠野武人駐, 那須の篠野(シノノ)に武人(ブジン)駐(トド)まりて,
欲打圍獵風葉度。 圍獵(カコミリョウ)打(セ)んと欲すれば 風葉(フウヨウ)度(ワタ)る。
各把剪插菔里整, 各々(オノオノ) 剪(ヤ)を把(ト)りて菔(エビラ)に插(サ)して整(トトノエ)るに,
惟聞霰撞皮護具。 惟(タ)だ聞く 霰(アラレ)の皮護具(ヒゴグ)に撞(ブツ)かるを。
註] 〇圍獵:巻狩り; 〇篠野:篠の生い茂った原; 〇駐:駐留する、留まる; 〇風葉:風に吹かれる木の葉; 〇度:渡る、過ぎる; 〇剪:矢; 〇菔:矢を入れる道具; 〇皮護具:籠手。
<現代語訳>
霰下での巻狩り
那須の篠原では巻狩りに参加する武士たちが集合しており、
巻狩りを始めようとする頃 そよと過ぎる風に草木の葉が揺れている。
武士たちは各々 矢を箙(エビラ)に入れて これから始まる巻狩りに備えて矢を整えており、
籠手(コテ)にぶつかり飛び散る霰の音が ひときわ響いた。
<簡体字およびピンイン>
霰时围猎 Xiàn shí wéiliè
那须筱野武人驻, Nà xū xiǎo yě wǔ rén zhù,
欲打围猎风叶度。 yù dǎ wéi liè fēng yè dù.
各把剪插菔里整, Gè bǎ jiǎn chā fú lǐ zhěng,
惟闻霰撞皮护具。 wéi wén xiàn zhuàng pí hù jù.
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実朝の上掲歌は、実際に巻狩りに参加した実体験の歌ではない。曽て父・頼朝が、征夷大将軍となった翌年(1193)、恐らくは武家の力を誇示するために催された那須の野での大掛かりな巻狩りを念頭に詠われたもののようである。
「当代(実朝)は歌(ウタ)鞠(マリ)をもって業となす 武芸 廃(スタ)れるに似たり」(『吾妻鑑』)とされ、確かに実朝は、武芸にはほど遠かったようだ。しかし実朝は、勇壮な巻狩りの場を想像しては、胸の血が躍るのを覚えていたのではないでしょうか。
この“破天荒”な歌に接するにつけ、やはり源氏の直系として“武人”の血は受け継いで来ているのだ と納得させられる。ただし、巻狩りの喧騒の中で、霰の籠手に弾く音に束の間の静寂さを感じ取る繊細さは、歌人・実朝であろう。
実朝の歌について、その大きな特徴として「本歌取り」の歌が多い点が挙げられている。上掲の歌は、次の万葉集中の一首の“本歌取り”の歌とされている:
わが袖に 霰たばしる 巻隠し
消(ケ)たずてあらむ 妹が見むため (柿本人麻呂)
(大意) あられが袖に降りかかってきて、転げ散っている。それが消え失せないよう袖に巻いて包み隠しおく。彼女に見せるために。
歌人・源実朝の誕生 (2)
母・政子は、実朝の教育には特に意を注ぎ、侍読(ジドク/ジトウ)として相模権守源仲章(ナカアキラ)を起用して学問を学ばせた。東国の王者たるべく、京の宮廷文化を取り入れ、これまでの武断的政治からの転換を意図していたようである。
仲章は、在京御家人として幕府に仕え、京都で活動していた。度々鎌倉に下り、武より文に力を入れて、実朝の指導に当たった と。一方、実朝に和歌を学ばせるために、政子は、歌人・源光行(1163~1244)を師に当てた。光行は、政治家・文学者・歌人である。
光行は、鎌倉幕府が成立すると政所の初代別当となり、朝廷と幕府の関係を円滑に運ぶため 鎌倉・京都間を往復していた。1191年には、京都で、頼朝の政治を称える『若宮社歌合』が開催されたが、その企画者とされている。
光行は、実朝が将軍となった(1203)直後、元久元年(1204)の7月に『蒙求(モウギュウ)和歌』を、また10月に『百詠和歌』を著している。政子が光行に声を掛けて、実朝の和歌教育のために書かせたのではないか と示唆されている(五味文彦『源実朝』)。
『蒙求和歌』とは、中国・唐の李瀚(リカン)が著した『蒙求』中の人物を抜き出し、仮名によりその事績を説明し、それに和歌を添えた書物で、「幼童」のため著したとある。『蒙求』とは、上代から南北朝までの著名人の伝記、逸話を1事項ごとに4字の1句(例:蛍光窓雪)にまとめ,計 596句を収めたもの。
『百詠和歌』とは、唐・李喬(リキョウ)撰の『百詠』の詩に和歌を付した書物で、これも「幼蒙」を諭すために著したとある。『百詠』とは、詩一題毎、詩の一句または一連2句を示し、詩句の注または関係のある故事・説話を述べ、それに和歌を添えた句題和歌集である。
先ずは、漢籍を教材にして、帝王学を学びつゝ、和歌に親しむよう仕向けているということでしょうか。1205年4月、「12首和歌を詠む」と、『吾妻鑑』に記載されているという。但し、今日、それらの歌は知られていない。