愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 159 飛蓬-66 小倉百人一首:(崇徳院)瀬をはやみ

2020-08-07 09:45:48 | 漢詩を読む
(77番) 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の
       われても末に 逢わむとぞ思う
              崇徳院 『詞花和歌集』恋・228
<訳> 川の瀬の流れが速く、岩にせき止められて急流が2つに分かれる。しかしまた1つになるように、愛しいあの人と今は分かれても、いつかはきっと再会しようと思っている。[板野博行]

ooooooooooooo
巌の如き障害にぶつかっても、乗り越えて再会を果たしたい という強い決意が感じられる恋の歌か。あるいは逆境にある崇徳院のある種 人生における決意を恋に託して訴えているのか。32歳ごろに作られた歌である。

前回、保元の乱を通して世の中の流れを追いましたが、崇徳院(1119~1164)の歌を鑑賞しながら、改めて院の対処、生きざまを見てみます。漢詩化するに当たっては、歌の趣旨を“恋”を含めて“人生”上の事柄・“人事”と捉えて対処しました。

歌中、「われ」は「割れ」と「別れ」、また“あはむ”は「合わむ」と「逢わむ」の、それぞれ、掛詞。「瀬をはやみ~滝川の」は「われても」の序詞、漢詩では起・承句に当てています。

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<漢字原文および読み下し文>  [去声二十三樣韻]
 希求再会 再会を希求(キキュウ)す
浅灘河水為激浪, 浅灘(センタン) 河水(カスイ) 激浪(ゲキロウ)と為(ナ)り、
碰到下游巌石上。 下遊(カユウ)の巌石(イワヲ)に碰到(ポントウ)す。
裂成両半終相会, 両半(リョウハン)に裂成(ワカレ)るも終(ツイ)には相会(アイア)う、
人事庶幾云一様。 庶幾(ネガウラク)は 人事(ジンジ) 一様(ドウヨウ)云(タ)らんことを。
 註]
  浅灘:浅瀬。         激浪:怒涛。
  碰到:ぶつかる、突き当たる。 下游:下流、川下。
  裂成両半:二つに割れる。   
  人事:世の中のできごと、ここでは、失恋や後に“保元の乱”の起こる源となった
    骨肉の争いなど。     庶幾:心から願うこと、願うらくは。
  云:…である、…たり。
<現代語訳>
 再会合を切に希む 
浅瀬では川の流れが速まり激流となり、
川下の巌にぶつかる。
流れは二つに分かれてしまうが、終にはまた合流する、
川の流れの様に、別れ別れとなった人事も、また再会の時が来るのを願うのだ。
<簡体字およびピンイン>
 希求再会     Xīqiú zàihuì
浅滩河水为激浪, Qiǎntān héshuǐ wéi jīlàng,
碰到下游岩石上。 pèng dào xiàyóu yánshí shàng.
裂成两半终相会, Liè chéng liǎng bàn zhōng xiāng huì,
人事庶几云一样。 rénshì shùjī yún yīyàng.
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前回触れたように、崇徳院は優れた和歌の才を示し、在位中にも頻繁に歌会を催していた。退位(1141)後は歌に没頭するようになり、当時の歌壇は崇徳院を中心に展開していた と。1150年には藤原俊成(閑話休題-155)に命じて、『久安百首』を編纂させている。

今回話題の歌・「瀬をはやみ」は、『久安百首』に載せられた一首である。したがって1150年以前、崇徳院30歳前後の頃の作と考えられます。これまでの崇徳院の身の回りを整理しつつ、歌の趣旨を探ってみたいと思います。

顕仁親王が1123年数え5歳に、74代鳥羽天皇の譲位により即位する、75代崇徳天皇である。1130年、関白・藤原忠通の長女、聖子が中宮に入り、天皇と聖子との夫婦仲は良好であった。しかし子供に恵まれなかった。1140年、女房・兵衛佐局に第一皇子・重仁親王が誕生する。

紆余曲折を経て、近衛天皇が即位(1142、76代)し、崇徳は上皇となる。しかし近衛帝は早世(1155)。崇徳上皇にとって我が子・重仁親王の即位の機会と目論んでいたが、鳥羽上皇の策により、雅仁親王が即位(77代後白河天皇)することになる。

崇徳上皇と雅仁親王とは、かつては仲の良い兄弟であった。母の待賢門院璋子が亡くなった折(1145)、雅仁親王がすっかり落ち込む時期があった。そこで崇徳院は弟を御所に呼び、元気を取り戻すまで同居していた という。10年後の事態からは想像できない兄弟愛が育まれた時もあったのである。

1156年鳥羽法皇が薨御。父危篤の報に接した崇徳上皇は直ちに車を走らせたが、門衛に阻まれてお目通りは叶わなかった。渋々引き返して後、再度参上したが、「崇徳に我が死の顔を見せてはならぬ」とのお言葉であった と再度阻止された。

崇徳上皇は、「父ながら、こんなにも我を嫌っていたのか」と落胆し、葬儀にも出席することはなかった と。法皇の薨御は1156年7月2日、同7月11日未明、崇徳上皇側に対する後白河天皇側の奇襲攻撃があった。保元の乱である。

さて和歌に戻って。崇徳上皇と妃・聖子は、実子を設けることは叶わなかったが、保元の乱に至る間、円満な夫婦関係を送っていた とされている。上皇の来し方を振り返って見たとき、上掲の歌は、実体験を基にした“熱烈な恋の歌”とは読めないように思われる。

父親に見放され、弟に背かれ、遂には剣を交えるという人生最大の逆境・障害に遭遇する崇徳院。川の流れに似て、いずれは心が解け合うことを夢見ていたであろう。遂に再会が叶わなかった逆境に置かれた状況を詠ったように読めますが、如何でしょう。

前回対象とした藤原忠通の歌を振り返ってみます。雄大な情景を詠った歌と読みました。保元の乱と重ねて読む研究者もいます。その歌を今一度思い浮かべて頂きたい:「わたの原 漕ぎ出でてみれば、久方の 雲ゐにまがう 沖つ白波。」

歌の中の「雲ゐ」は、天皇の玉座の脇にある「雲居の間」を、「沖つ白波」の「沖」から配流の島「隠岐」を、波立つ荒海 等々。これらの表現は、保元の乱の様相を想起させる。すなわち、忠通の歌は、保元の乱と重なり、同乱を予言していると読むのである。

“既視感”という言葉がある。“保元の乱”の始末を追うと、“あれ?どこかで経験したような気がするぞ? そうだあの歌二首が……!!” と。“乱”とその 数年以上前に詠まれたこれら二首の歌の情景を重ねて読めることは確かである。あたかも“既視”の如くに。

崇徳院は、時代に翻弄された一個の人間で、和歌を愉しむ繊細な心を持つ、心の優しいお方であったように想像される。配流先では、極楽往生を願い、仏教に深く傾倒していた と。五部大乗経の写経を行い、写本を戦死者供養のため寺に収めてほしい と朝廷に送ったが、送り返された由。遂に都に帰ることはなかった。

下の歌は、後白河院の院宣により 藤原俊成が撰した勅撰集『千載和歌集』(1188成立)に収められた崇徳院の歌である。

誓いをば 千尋の海に たとふなり
   つゆも頼まば 数に入りなむ(千載和歌集 釈教 崇徳院御製)
  [観音さまの誓願は千尋の海にたとえられる わずかでもお頼みすれば この
  わたしも救われる衆生のうちに入れていただけよう](小倉山荘氏)。
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