建保七(1219)年1月27日、源実朝は、右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に参宮される。親拝の行事を終え、その帰路、夜半に、宮前の石段を下る途中、甥の公暁により殺害された。
掲歌は、当日、出立の朝、髪を整え、出御の折に、庭の梅を見て、詠まれた「禁忌」の歌であるとされる。恐らくは、大宰府に左遷されて憤死した菅原道真の《東風吹かば匂い起こせよ梅花……》の歌を思い浮かべつゝ、詠まれたものと想像される。
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[詞書] 庭の梅をご覧じて禁忌の歌を詠み給う
い出て去なば 主なき宿と なりぬとも
軒端の梅よ 春を忘るな (吾妻鑑・建保七年正月廿七日)
(大意) 私が出て逝ってしまったら ここは主のいない家となろう。例えそう
なったとしても 軒端の梅よ 春を忘れることなく 花を咲かせてくれ。
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<漢詩>
臨終歌 臨終の歌 [去声二十三漾韻]
任他余出去, 任他(ママヨ) 余が出(イデ)て去りなば,
唯有寂空帳。 唯 寂(サビシ)き空帳有るのみ。
雖然前梅也, 然(シカ)りと雖(イエド)も 房前にある梅(ウメ)也(ヨ),
春春開別忘。 春春(シュンジュン)、開花を 忘れないでくれ。
註] ○任他:ままよ、さもあらばあれ。
<現代語訳>
辞世の歌
ままよ私が此処を出ていって、世を去ったなら、
ただ此処は主無しの寂しい帳の内となってしまおう。
たとえそうだとしても 軒先の梅よ、
巡りくる春には忘れることなく 花を咲かせておくれ。
<簡体字およびピンイン>
临终歌 Línzhōng gē
任他余出去, Rèn tā yú chū qù,
唯有寂空帐。 wéi yǒu jì kōng zhàng.
虽然前梅也, Suīrán qián méi yě,
春春开别忘。 chūn chūn kāi bié wàng.
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この歌は、『金槐集』には収められていない。『吾妻鏡』に、右大臣拝賀の行事のために出立する、当日朝の出来事の一コマとして記載されている。その前後および凶事の模様を点描すると、以下の様である。
夕刻(夕6時前後)、出御されたが、その夜は、雪、二尺余の積雪であった。出立に先立って、大江広元が、「……今涙が出て止まらない、東大寺落慶供養の際の右大将・頼朝の例にならい、束帯の下に腹巻(鎧の胴)をつけてください」と進言されたが、源仲章が「大臣、大将に昇叙する人に前例がない」として制止された。
宮内公氏が、髪を整えた際、実朝は、自ら髪の一筋を抜き、記念に と公氏に与えられた由。更に庭の梅を見て、実朝は、歌一首を詠まれた。これが掲題の歌である。
八幡宮での親拝を終え、南門を出御される際、鳩が頻りに鳴き騒ぎ、また牛車から降りる際に、帯びた剣の先端を突き折ってしまった 等々、不吉な出来事が出来していた。
一方、八幡宮寺の楼門に入る際、将軍を警護する立場にあった北条義時は、急に体調不良を訴えて御剣役を源仲章に譲り、列から離れて、子町亭に帰られていた。実朝とともに、源仲章も凶事で倒れる結果となった。
その他、凶事の前後、不吉を予感させる出来事が色々と起こっていた様である。実朝自身、時代の流れ、身辺の動静、等々、“空気感”として、不祥事を予感して、覚悟を持っていたのではなかろうか と推察します。
実朝が参考にした思える歌:
東風吹かば 匂い起こせよ 梅の花
主なしとて 春な忘れそ
(菅原道真 『大鏡』; 『拾遺集』巻十六 雑春・1006)
(大意) 春になって東風が吹いたなら 梅の花よ 香りを私の所に届けてくれ、
主人がいないからといって、春を忘れることのないように。
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