栄華を誇った然しもの長安も、今や目にするのは秋草が繁茂した寂寞とした情景のみ。和歌に表現するとするなら、さしずめ“霜枯れの浅茅(アサジ)が原”と言う所でしょうか。安史の乱の傷跡は、さほどに深いものであった。
音楽好きであった玄宗が、自ら直接指導を行い、育て上げた年若き楽人たち・「皇帝梨園弟子」、さらには楊貴妃に侍っていた、華やかな装いの後宮の女官たち、頭には白髪が混じり、黛も消えて老いを隠しようがなく、時の移ろいを実感させられるのである。
西宮とは宮城の大極殿(=大極宮、西内)、南苑とは興慶宮(=南内)を指すと思われる。興慶宮には、牡丹の名所“沈香亭”があり、曽て玄宗と楊貴妃の花見の宴で、玄宗に所望されて李白が詩・“雲には衣裳を想い、花には容(カタチ)を想う…(清平調子)”と詠じた所である。
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<白居易の詩>
長恨歌 (10)
63 西宮南苑多秋草 西宮(セイキュウ) 南苑(ナンエン) 秋草(シュウソウ)多く、
64 落葉滿階紅不掃 落葉階(カイ)に満ち紅(クレナイ)掃(ハラ)はれず
65 梨園弟子白髮新 梨園(リエン)の弟子(テイシ) 白髪(ハクハツ)新たに
66 椒房阿監靑娥老 椒房(ショウボウ)の阿監(アカン) 青蛾(セイガ)老いたり
註] 〇西宮南苑:西の御殿、南の御苑; 〇梨園:玄宗が設けた宮中の歌舞教練所;
〇弟子:歌舞教練所で学んだ楽人; 〇椒房:皇后の居所; 〇阿監:後宮を
監督する女官長; 〇靑娥:青黒く描いた眉。
<現代語訳>
63 西の御殿、南の御苑には秋草ばかりが生い茂り、
64 階(キザハシ)に散り敷く紅葉は掃き清められることもない。
65 歌舞団の練習生たちは白髪頭になり始め、
66 後宮の女房は黒く描いた眉に老いがかすめる。
[川合康三 編訳 中国名詩選 岩波文庫 に拠る]
<簡体字およびピンイン>
63 西宫南苑多秋草 Xī gōng nán yuàn duō qiū cǎo [上声十九皓韻]
64 落叶满阶红不扫 luò yè mǎn jiē hóng bu sǎo
65 梨园弟子白发新 Lí yuán dì zǐ bái fà xīn
66 椒房阿监靑娥老 jiāo fáng ā jiàn qīng é lǎo
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玄宗皇帝は、歌舞・音曲を好み、また才能も豊かであったようである。国際都市・長安は、外交にも力を入れ、外国との事物の交流も盛んとなり、音楽もその一つであった。特に中央アジアやインドからシルクロードを通り、西域の音楽・胡樂が齎された。
玄宗は、自ら作曲も行い、輸入された胡楽については中国風に編曲も行っていた。その代表的な例に、「霓裳羽衣(ゲイショウウイ)の曲」という宮廷音楽の舞曲がある。原曲は、インド起源の「波羅門(バラモン)」という曲である と。
“霓裳羽衣”とは、仙女や天女が着る、鳥の羽でできた軽い衣(“羽衣”)で、その裾が虹のように美しい(“霓裳”)という意味で、女性用の薄絹で作られた美しく軽やかな衣装をいう と。この曲は、最愛の李玉環(のちの楊貴妃)の為に作られた曲であるとされています。
なおこの曲は、李玉環が特別な存在であることを群臣に意識させるべく、玉環のお披露目の宴で披露され、また後々楊貴妃もこの曲に合わせてよく踊っていた と。まさにお二方の愛の思い出がぎっしりと詰まった曲と言えるのでしょう。なお、安史の乱以後は、「不祥の曲」として忌避され、その楽譜は散逸してしまった と。
玄宗は、中国古来の音楽と胡楽を癒合させた“法曲”という新ジャンルを確立、それを学ぶための専門機関を設置する。本来、音楽を扱う部署には、雅楽(伝統的な儀式音楽)および燕楽(宴席の音楽)を司る「太楽署」と宮女たちが技芸を学ぶ「内教坊」があった。
新設の教習機関では、太楽署の燕楽に属する者から秀でた者300名、内教坊の宮女から容貌、芸にすぐれた者数百名を選抜、玄宗皇帝自ら直接指導に当たった由。前者は、太極殿の梨木が植わった庭園(梨園)に集められて指導を受け、「皇帝梨園弟子」と称された。
なお、日本の歌舞伎界を「梨園」と呼ぶのは、この唐の宮廷音楽家養成所「梨園」に拠る と。
[句題和歌]
平親清四女( タイラノチカキヨノシジョ)の和歌を紹介します。どの句と指定はないようですが、表面的に、敢えて関係の深い句とすれば、64句でしょうか。他の句も含めて、長恨歌の底流にある思いを詠っているように思われる。 (千人万首asahi-net.or.jp に拠る)
恋ひわぶる 涙の色の くれなゐを
はらはぬ庭の 秋の紅葉(モミジ)ば(平親清四女『親清四女集』)
(大意) 恋に思い悩み、血涙で紅に染まった涙を拭くことも忘れているが、庭に散り
敷いた紅のもみじ葉も掃き払われないままであるよ。
作者・“平親清四女”の生没年は不詳。父は、桓武平氏の正五位下加賀守平親清(タイラノチカキヨ)。母は白拍子出身で、権中納言“西園寺実材(サネキ)の母”。
少々解り難いが、“西園寺実材の母”は、当初、平親清との間で“平親清四女”を設けていた。後に“西園寺実材の母”は、太政大臣・西園寺公経(1171~1244)の側室となり、5男・西園寺実材を設けた。平親清四女と西園寺実材とは、父違い・同母の義姉弟ということである。
“西園寺実材の母”は、家集『権中納言実材卿母集』を遺しており、“平親清四女”も、母の歌才をしっかりと承け継ぎ『親清四女集』を遺している。
西園寺公経は、公家、歌人。鎌倉vs.京都の間で争われた「承久の乱」(1221)の前後でうまく立ち回り出世を果たし、巨万の富を築いた傑物で、今日にその威容を伝えている京都北山の鹿苑院(金閣寺)の建立者である(閑話休題229 参照)。
西園寺公経は、 “藤原公経”の別名で、“西園寺(=金閣寺)”を建立し、そこに住まっていたことから、以後、子孫代々“西園寺”姓を称し、公経は“西園寺”家の始祖とされている。百人一首には“入道前太政大臣”の名で、96番歌として次の歌が採られている:
花さそふ あらしの庭の 雪ならで
ふりゆくものは 我が身なりけり (『新勅撰和歌集』雑・1054)
(大意) 花を吹き散らす嵐の日の庭に“降り”積もっていくのは、雪かと思いきや、
“老(フ)り”ゆくのはわが身なのだ。
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