愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題72 飛蓬-漢詩を詠む 12 - 寒山寺-2 池田・慈恩寺

2018-04-19 11:05:25 | 漢詩を読む
蘇州の寒山寺で参詣者の注目を集めている築造物に、梵鐘と併せて、前回話題にした張継の詩「風橋夜泊」を刻んだ石碑があります。

大阪府池田市の北部、長尾山という山の南裾野の麓に“慈恩寺”という古刹があり、このお寺には、寒山寺の梵鐘および「風橋夜泊」詩碑の実物大複製物が設置されております。

この2月半ば、ちょうど園内のロウバイの蕾が開きかけた頃(写真1)、“慈恩寺”を訪ね、件の梵鐘および「風橋夜泊」の詩碑を間近に見る機会があった。その折の、特に梵鐘について、感興の湧くまま、下記のような律詩にしてみました。


写真1:慈恩寺境内のロウバイ(2018.02.13撮影)

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蝋梅花蕾将開時  蝋梅(ロウバイ)の花蕾(カレイ)将(マサ) に開かんとする時
訪慈恩寺  慈恩寺を訪(タズ)ぬ (下平声 七陽韻)

雲淡遥垂長尾岡、 雲 淡(アワ)く遥かに垂(タ)れる長尾(ナガオ)の岡(オネ)、
煙青籠罩在山郷。 煙 青く籠罩(ロウトウ)として山郷(サンキョウ)に在り。
殿鮮影倒入池里、 殿(デン) は鮮(アザ)やかに影(カゲ)倒(サカシマ)にして池に入り、
楼抱梵鐘山麓場。 楼は 梵鐘(ボンショウ)を抱いて山麓(サンロク)の場(ヒロバ)。
光照黯黑明道路、 光は 黯黑(クラヤミ)を照らして道路を明らかにし、
声覚貪睡促昂揚。 声(オト)は 貪睡(ネムリ)を覚(サ)まして昂揚(コウヨウ)を促す。
知其鐘送従蘇寺、 知(シ)る 其の鐘 蘇(ソ)の寺より送られしを、
好響乾坤更四方。 好(ヨ)し 響け、乾坤(ケンコン) 更に四方へ。

註]  長尾岡:長尾山
籠罩:霞が垂れこめているさま
場:ここでは第2声chángで“広場”の意
黯黑:暗闇
貪睡:眠りをむさぼること
蘇寺:中国江蘇省蘇州市の寒山寺
乾坤:天と地

<現代語訳>
 蝋梅の花の蕾がまさに開こうとする頃、
    慈恩寺を訪ねた
淡く白い雲が長尾山の尾根の上はるかに垂れており、
 靄は青く山懐に垂れこめている。
本殿は鮮やかに園内の池にさかしまになって影を映しており、
 鐘楼は梵鐘を抱いて山麓の広場に建っている。
光は闇を照らして行く道をつまびらかにし、
 鐘の音は眠りを覚まして意気の上がるのを促す。
その鐘、蘇州の寒山寺より送られたものと知る、
 よし、響け、天地四方津々浦々まで。

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池田市北部、阪神高速道空港池田線を木部(キベ)出口亀岡方面へ下りて、五月山を右に見て国道423号を1.2-3 km北上すると、左側奥に長尾山の裾野が見える。五月山と長尾山との谷間は、春霞、時に黄砂で霞むことがある。

東山交差点を左(西)に折れて長尾山の南裾野の麓をしばらく行くと、登り坂となり、峠を越えて兵庫県川西市に抜ける。慈恩寺は、その登り坂の途中、道路脇、やや山側に入った所に建っている(写真2)。


写真2:慈恩寺の本殿

昔、北摂は交通の要所で、朝廷にとって重要な地域であったようである。長尾山は、その嶺伝いに、西から都に通ずる街道として、人の往来が多かったらしい。

725年、聖武天皇(701生、在位724~756)は、この街道の往来安全、人民安泰を祈願して、僧行基(668~749)に勅を下し、長尾山の頂に堂を創建、毘沙門天を奉安した。以後、いつの頃からか「慈薗寺」と呼ばれていたようです。

長尾山の頂は、国道423号をさらに北上すると、新名神高速道の‘箕面とどろみIC’に至るが、このICのやや南西側にある。当時、寺領は、現在の伏尾ゴルフ場を含む広大な山裾を擁していた。山頂には、なお遺跡が残っている由。

空海(弘法大師、774~835))は、長安に留学、長安の“大慈恩寺”を訪れ、慈恩大師に教えを受けた。帰国後、828年、「慈薗寺」を長安の“大慈恩寺”に因んで「慈恩寺」と号して、その中興に当たっている。

時代は下って、1887(明治20)年、人の往来が谷筋に移ったことに対応して、長尾山の頂から長尾山の南裾野の麓に移転し、現在に至っている。

この慈恩寺と蘇州の寒山寺は、近く“姉妹寺”の関係を結ぼうとしている。その縁結びの役割を果たしたのは、“梵鐘”であり、また「楓橋夜泊」の“詩碑”でした。その経緯をちょっと覗いてみます。

1972 (昭和47) 年に、日中間の国交正常化がなされ、その10年後(1982)には池田市-蘇州市間で友好都市締結が結ばれています。

友好締結に先立って、1970年代初めごろ、蘇州市政府幹部から、故藤尾昭(池田市日中友好協会名誉会長)氏に対して、「蘇州市の観光振興について」提案の依頼があった由。

故藤尾昭氏は、“寒山寺こそ目玉になる、除夜の鐘イベントを”と提案するとともに、「寒山寺新年聴鐘声活動」の発起人となって、そのイベント実現に注力され、1979年に実現している。なお、中国では“除夜の鐘”を撞く習慣はなく、通常、鐘は時刻を知らせるために撞くようであるが。

「楓橋夜泊」に詠まれた鐘は、唐代に鋳造された、初代の梵鐘であるが、現存していない。以後、2代目(明代鋳造;16世紀末-17世紀初に消失)、3代目(清末鋳造)、4代目(1986年鋳造)、5代目(2005年鋳造)と、鋳造されている。

これらの現存する4、5代目の梵鐘は大型で、例えば、5代目は高さ8.5 m、最大径5.2 m、重さ10.8 tとのことである。これらは特別誂えの鐘楼に収められているようである。

昔、寒山寺の古い鐘が姿を消したのは日本人(倭寇?)が持ち去ったのだ との噂があったらしい。

明治期、曹洞宗の僧で篆刻家の山田寒山(1856~1918)は、噂を気にして、日本国内で捜索したが、発見することはできなかった。また時の総理大臣伊藤博文も、部下に捜索させたようであるが、やはり見出すことはできなかった。

山田寒山は、印刻の依頼を通して、伊藤博文の知遇を得て、交際を深めたとのことである。後(1905)に、両人が発起人となり、寄付を集めて梵鐘を鋳造して、1914年に寒山寺に寄贈した と。

その梵鐘は、寒山寺の大雄宝殿の右側の鐘楼に収められている由。銅製のこの梵鐘の作りは、唐風(青銅製乳頭鐘)で、大きくはないが、音色は清澄で荘厳さがあり、余韻が素晴らしい とされています。

2007年、池田市-蘇州市友好都市締結25周年を記念して、一個の梵鐘が、寒山寺から慈恩寺に贈呈されています。下の写真に見るように、この梵鐘は、“大清光緒32年”の刻字があることから見て、清末鋳造3代目の梵鐘の複製と思われる。


写真3:長尾山の麓の広場に建つ鐘楼(撮影:2018.04.18)

写真4:鐘の全体像(撮影:2018.04.18)

写真5:鐘の部分(撮影:2018.04.18)

この梵鐘は、寒山寺の梵鐘と同寸大(高さ1.3 m、口径1.24 m、重さ2.0 t)とされています。以後、寒山寺と同じく、世の安寧を祈念して、除夜に天地四方に清音を響かせていることでしょう。

さらに十年後の昨2017年、友好都市締結35周年を記念して、「楓橋夜泊」の詩碑が贈呈されています(写真6)。昨年8月17日、寒山寺の秋爽和尚が来日、慈恩寺を訪れて除幕式が盛大に執り行われたということである。


写真6:張継「楓橋夜泊」の碑(2018.04.18撮影)

秋爽和尚の慈恩寺訪問を機に、友好の機運が一層高まり、「慈恩寺と寒山寺が“姉妹寺”になってもいいね」と相成ったようである。今年6月には慈恩寺の吉川住職が寒山寺を訪れて、調印の運びとなる由。

なお、寒山寺の「楓橋夜泊」の詩碑は、当初、明代の「三絶」と呼ばれた蘇州の文人・文徴明の筆になるものであった。長い年月で損耗が激しくなったため、改めて築造されることになった。現在の碑は、清代末の学者・兪樾の筆になるもので、碑面には“兪樾”の刻字が認められる。

<あとがき>
慈恩寺の由緒については、吉川住職に直にお話を伺うことができました。6月の蘇州訪問準備でお忙しい中、貴重なお時間を割いて頂きました。ここに感謝の意を表します。
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