前回、ドラマの展開に“潮目が変わり”、話題の中心が第八皇子から第四皇子に変わったことを述べました。そのような折に第四皇子から、“行到水窮処、坐看雲起時”と墨書した一枚の便箋が若曦に届けられました。
これは王維(699?~761)作の詩の一部で、元の詩は末尾に再度(一部加筆修正)挙げてあります。この時点でこの詩が引用されたことは、非常に象徴的であり、ドラマの展開に重要な意味を持つものと思われます。その心は以下に述べます。
詩の作者王維については、先にちょっと触れました(参照:閑話休題35、2017-04-11投稿)。今回挙げられた詩の理解に役立つと思われる面から、もう少し王維について触れます。
母は仏教徒で、その影響を受けて成長しています。博学多芸で、17歳のころ長安に遊学して、詩によっても名声を博し、王族や高級官僚から厚く遇されていたようです。719年(21歳)に進士に合格、官僚となるが、翌年、済州(山東省)に左遷され、数年後に官を辞めています。
729年(31歳) 結婚しますが、2年後に妻は亡くなっています。その頃、長安の東南にある終南山、輞川のほとりに土地を購入して、別荘を構え隠棲します。以後、生涯妻を娶ることはなかったとのことです。
3年の喪明け後、詩人でもある宰相・張九齢の下に長安で職を得ます。王維を取り巻く環境は、必ずしも平穏ではありません。宰相・張九齢に関わる政争、また745年楊玉環が玄宗に召されて貴妃となり、寵を得るにつれて、世上不穏な空気が生まれてきます。終には“安史の乱”(755年)へと発展します。
安史の乱では、王維は、長安から逃げ遅れて、乱軍に捉えられます。一時、反乱軍が建てた燕国の都・洛陽に“拉致”され、同国の一官僚として働く憂き目に逢っています。
750年(52歳)に母が亡くなります。この時、嘆きの余りに痩せて死にかけるほどであったらしい。759年(61歳)母と妻を弔うために輞川別荘の一部を寺に変えて清源寺として寄進しています。
前稿で触れたように、年若くして都に出て、品性の良さ、また多芸多才ゆえに、順風満帆の生涯を送ったかに見える王維ですが、時代の流れに翻弄された生涯であったようにも見えます。
高級官僚の王維は、自然の中での暮らしを愛して、宮仕えの合間には都の喧騒から離れて、郊外の輞川別荘で過ごし、命の洗濯をしていたように思える。“半官半隠”は、一見悠々自適の生活に見えるが、その実、世の荒波を避ける方便であったようにも思えます。
今回話題の詩は、晩年、王維61歳の頃、終南山の輞川別荘を訪ねた際の作のようです。この詩とドラマの展開との関りを以下読み解いていきます。
字面で読む詩の内容は、現代語訳に記した通りです。しかし詩の中で、ドラマで引用された“行きて到る 水の窮まる処,坐して看る 雲の起る時を”の2句は、字面の裏に深い含蓄を秘めているように思われます。
“仏徒の王維”という面から見れば、“水の窮まる処”は、“何か究極の核心的な事柄”を求めて、また“坐して看る雲の起る時”は、“形のはっきりしない何かが現れる時”を見定める と置き換えて読むことができるでしょうか。
“看”の字は、書物を“読む”という意味です。ボンヤリと“見る”のではなく、行間、紙背までも“読む”ことと解されます。“究極の核新的なことを求めて、それが現れる時”を座して見定める。すなわち、 “座禅を組み、無(悟り)の境地に至るのを待つ” 禅修行僧の行を想像させます。
さて、ドラマの俗の世界に戻って。 “究極の核新的なこと”を“帝位”と、また“何かが現れる時”を“皇帝の崩御の時”と読み替えたらどうでしょう。この2句は、慎重居士の第四皇子の胸の奥に秘めた大きな望みを言い表していると言えます。
現皇太子が“帝”となる器でないことは、周りの誰しもが感じていることである。かと言って、積極的に策を弄して、事を起こすということは、“徒党を組む”ことにつながり、皇帝の最も忌み嫌うことである。“時の熟れるのを待つ”ことが最善の策と心得た姿勢と言えるでしょう。
ドラマの中で随分前に、若曦が、第四皇子の趣味や好きな事を聞く場面がありました。「好きな木は?」、「好きな花は?」、…..。その折の問答で、若曦:「好きな詩人は?」、皇子:「王維!」と即答します。続いて、若曦:「好きな詩は?」、皇子:「mn mn」と答えを濁したことがありました。
帝位を狙っていることについては、軽々しく口にできる事柄ではない。第四皇子の唯一の理解者である第十三皇子に対してさへ 胸の内を口にしたことはない。ましてや新参者の若曦に対してをや である。
しかし、前回に見たように、第四皇子は、若曦に対して、互いに心の壁をなくして、真実を語る、そのような間柄であることを要求し、若曦も納得しました。第四皇子は、若曦を、第十三皇子と同様、自分を理解してくれる人、仲間の一人、心を許すことのできる一人であると確信したと解されます。
若曦は、第四皇子の手のひらに、「“帝位”を望みますか?」と問いました。第四皇子は、今や若曦を信頼のおける自分の理解者と見て、胸の内を“行到水窮処,坐看雲起時」の2句に託して、その問いに対する回答としたと読めます。
さらに、詩の最後の2句、“偶然 林叟に値い,談笑して還期無し” の中で、“林叟”を“若曦”に置き変えてみます。“偶然、心を許せる若曦に巡り合い、話が弾み、時の経つのを忘れる”と読むこともできます。
ドラマは、主人公が第八皇子から第四皇子に変わるという潮目にあることは既に述べました。加えて、第四皇子が、“帝位”を狙っていることを明らかにしたことで、ドラマの展開に新しい流れが生まれるであろうことを示唆しています。
蛇足]
・李白は“詩仙”、杜甫は“詩聖”。一方、王維は“詩仏” と称されています。宣なるかな と頷けるように思えます。
・件の2句“行到水窮処,坐看雲起時」は、仏教、特に禅の世界で、禅の境地を表すものとして、茶室の床に掛ける軸物の書として用いられている と聞く。但し、筆者は、このような‘茶掛け’を未だ実際に目にしたことはない。
話は変って。皇太子が「若曦を側室にしたい」と皇帝に申し出たことに関連して、第四・八皇子が手を組んで、その破局に向けて動き出したことについて。
塞外遠征の機会が増すにつれて、若曦と敏敏の友情関係は一層強固になっています。蒙古では、蒙古王の娘、敏敏と、友好関係にある部族の皇子との婚約が整ったようです。
それを知った皇太子は、将来即位後、若曦―敏敏の繋がりを活かして、蒙古との関係を強固、且つ安定に保つことができる、ひいては自分の政権が安定する との思いを持って、「若曦を側室に」と願い出たように思われます。
“帝位”を狙う第四・八皇子にとっては一大事です。そこでそれぞれの思惑は胸の奥に仕舞い、恩讐を越えて手を組み、皇太子と若曦との婚儀を阻止する方向に動いた ということである。
xxxxxxxx
<原文と読み下し文>
・入山寄城中故人 入山して城中の故人に寄す 王維
中歳頗好道, 中歳(チュウサイ) 頗(スコブ)る道(ドウ)を好み,
晩家南山陲。 晩に家(イエ)す南山の陲(ホトリ)。
興來毎独往, 興(キョウ)來たりては独り往く毎に、
勝事空自知。 勝事(ショウジ)空しく自(オノ)ずから知る。
行到水窮処, 行きて到る 水の窮(キワ)まる処,
坐看雲起時。 坐して看る 雲の起る時を。
偶然値林叟, 偶然 林叟(リンソウ)に値(ア)い,
談笑無還期。 談笑して還期(カンキ)無し。
・註] 中歳:中年の頃
・・・・道:仏道、仏教
・・・・勝事:素晴らしい風光
・・・・雲起時:昔、雲は岫(シュウ=山にある洞穴)から湧き出ると考えられていたらしい
・・・・林叟:きこりの老人
・・・・還期:帰るとき
< 現代語訳>
・終南山麓の別荘に入って、城中の友人に詩を送る
中年の頃から少々仏道に興味をもっていたが、
晩年になって終南山麓に設けてある別荘に籠ることにした。
興趣が湧いてくるとよく独りで出かけていき、
素晴らしい風光に自然に溶け込んでいく。
水の湧き出る処まで上っていき、
座って雲が起こってくるのに見入るのである。
時には偶然にお年寄りの木こりに逢うことがあり、
つい話し込んで帰る時を忘れてしまうのだ。
これは王維(699?~761)作の詩の一部で、元の詩は末尾に再度(一部加筆修正)挙げてあります。この時点でこの詩が引用されたことは、非常に象徴的であり、ドラマの展開に重要な意味を持つものと思われます。その心は以下に述べます。
詩の作者王維については、先にちょっと触れました(参照:閑話休題35、2017-04-11投稿)。今回挙げられた詩の理解に役立つと思われる面から、もう少し王維について触れます。
母は仏教徒で、その影響を受けて成長しています。博学多芸で、17歳のころ長安に遊学して、詩によっても名声を博し、王族や高級官僚から厚く遇されていたようです。719年(21歳)に進士に合格、官僚となるが、翌年、済州(山東省)に左遷され、数年後に官を辞めています。
729年(31歳) 結婚しますが、2年後に妻は亡くなっています。その頃、長安の東南にある終南山、輞川のほとりに土地を購入して、別荘を構え隠棲します。以後、生涯妻を娶ることはなかったとのことです。
3年の喪明け後、詩人でもある宰相・張九齢の下に長安で職を得ます。王維を取り巻く環境は、必ずしも平穏ではありません。宰相・張九齢に関わる政争、また745年楊玉環が玄宗に召されて貴妃となり、寵を得るにつれて、世上不穏な空気が生まれてきます。終には“安史の乱”(755年)へと発展します。
安史の乱では、王維は、長安から逃げ遅れて、乱軍に捉えられます。一時、反乱軍が建てた燕国の都・洛陽に“拉致”され、同国の一官僚として働く憂き目に逢っています。
750年(52歳)に母が亡くなります。この時、嘆きの余りに痩せて死にかけるほどであったらしい。759年(61歳)母と妻を弔うために輞川別荘の一部を寺に変えて清源寺として寄進しています。
前稿で触れたように、年若くして都に出て、品性の良さ、また多芸多才ゆえに、順風満帆の生涯を送ったかに見える王維ですが、時代の流れに翻弄された生涯であったようにも見えます。
高級官僚の王維は、自然の中での暮らしを愛して、宮仕えの合間には都の喧騒から離れて、郊外の輞川別荘で過ごし、命の洗濯をしていたように思える。“半官半隠”は、一見悠々自適の生活に見えるが、その実、世の荒波を避ける方便であったようにも思えます。
今回話題の詩は、晩年、王維61歳の頃、終南山の輞川別荘を訪ねた際の作のようです。この詩とドラマの展開との関りを以下読み解いていきます。
字面で読む詩の内容は、現代語訳に記した通りです。しかし詩の中で、ドラマで引用された“行きて到る 水の窮まる処,坐して看る 雲の起る時を”の2句は、字面の裏に深い含蓄を秘めているように思われます。
“仏徒の王維”という面から見れば、“水の窮まる処”は、“何か究極の核心的な事柄”を求めて、また“坐して看る雲の起る時”は、“形のはっきりしない何かが現れる時”を見定める と置き換えて読むことができるでしょうか。
“看”の字は、書物を“読む”という意味です。ボンヤリと“見る”のではなく、行間、紙背までも“読む”ことと解されます。“究極の核新的なことを求めて、それが現れる時”を座して見定める。すなわち、 “座禅を組み、無(悟り)の境地に至るのを待つ” 禅修行僧の行を想像させます。
さて、ドラマの俗の世界に戻って。 “究極の核新的なこと”を“帝位”と、また“何かが現れる時”を“皇帝の崩御の時”と読み替えたらどうでしょう。この2句は、慎重居士の第四皇子の胸の奥に秘めた大きな望みを言い表していると言えます。
現皇太子が“帝”となる器でないことは、周りの誰しもが感じていることである。かと言って、積極的に策を弄して、事を起こすということは、“徒党を組む”ことにつながり、皇帝の最も忌み嫌うことである。“時の熟れるのを待つ”ことが最善の策と心得た姿勢と言えるでしょう。
ドラマの中で随分前に、若曦が、第四皇子の趣味や好きな事を聞く場面がありました。「好きな木は?」、「好きな花は?」、…..。その折の問答で、若曦:「好きな詩人は?」、皇子:「王維!」と即答します。続いて、若曦:「好きな詩は?」、皇子:「mn mn」と答えを濁したことがありました。
帝位を狙っていることについては、軽々しく口にできる事柄ではない。第四皇子の唯一の理解者である第十三皇子に対してさへ 胸の内を口にしたことはない。ましてや新参者の若曦に対してをや である。
しかし、前回に見たように、第四皇子は、若曦に対して、互いに心の壁をなくして、真実を語る、そのような間柄であることを要求し、若曦も納得しました。第四皇子は、若曦を、第十三皇子と同様、自分を理解してくれる人、仲間の一人、心を許すことのできる一人であると確信したと解されます。
若曦は、第四皇子の手のひらに、「“帝位”を望みますか?」と問いました。第四皇子は、今や若曦を信頼のおける自分の理解者と見て、胸の内を“行到水窮処,坐看雲起時」の2句に託して、その問いに対する回答としたと読めます。
さらに、詩の最後の2句、“偶然 林叟に値い,談笑して還期無し” の中で、“林叟”を“若曦”に置き変えてみます。“偶然、心を許せる若曦に巡り合い、話が弾み、時の経つのを忘れる”と読むこともできます。
ドラマは、主人公が第八皇子から第四皇子に変わるという潮目にあることは既に述べました。加えて、第四皇子が、“帝位”を狙っていることを明らかにしたことで、ドラマの展開に新しい流れが生まれるであろうことを示唆しています。
蛇足]
・李白は“詩仙”、杜甫は“詩聖”。一方、王維は“詩仏” と称されています。宣なるかな と頷けるように思えます。
・件の2句“行到水窮処,坐看雲起時」は、仏教、特に禅の世界で、禅の境地を表すものとして、茶室の床に掛ける軸物の書として用いられている と聞く。但し、筆者は、このような‘茶掛け’を未だ実際に目にしたことはない。
話は変って。皇太子が「若曦を側室にしたい」と皇帝に申し出たことに関連して、第四・八皇子が手を組んで、その破局に向けて動き出したことについて。
塞外遠征の機会が増すにつれて、若曦と敏敏の友情関係は一層強固になっています。蒙古では、蒙古王の娘、敏敏と、友好関係にある部族の皇子との婚約が整ったようです。
それを知った皇太子は、将来即位後、若曦―敏敏の繋がりを活かして、蒙古との関係を強固、且つ安定に保つことができる、ひいては自分の政権が安定する との思いを持って、「若曦を側室に」と願い出たように思われます。
“帝位”を狙う第四・八皇子にとっては一大事です。そこでそれぞれの思惑は胸の奥に仕舞い、恩讐を越えて手を組み、皇太子と若曦との婚儀を阻止する方向に動いた ということである。
xxxxxxxx
<原文と読み下し文>
・入山寄城中故人 入山して城中の故人に寄す 王維
中歳頗好道, 中歳(チュウサイ) 頗(スコブ)る道(ドウ)を好み,
晩家南山陲。 晩に家(イエ)す南山の陲(ホトリ)。
興來毎独往, 興(キョウ)來たりては独り往く毎に、
勝事空自知。 勝事(ショウジ)空しく自(オノ)ずから知る。
行到水窮処, 行きて到る 水の窮(キワ)まる処,
坐看雲起時。 坐して看る 雲の起る時を。
偶然値林叟, 偶然 林叟(リンソウ)に値(ア)い,
談笑無還期。 談笑して還期(カンキ)無し。
・註] 中歳:中年の頃
・・・・道:仏道、仏教
・・・・勝事:素晴らしい風光
・・・・雲起時:昔、雲は岫(シュウ=山にある洞穴)から湧き出ると考えられていたらしい
・・・・林叟:きこりの老人
・・・・還期:帰るとき
< 現代語訳>
・終南山麓の別荘に入って、城中の友人に詩を送る
中年の頃から少々仏道に興味をもっていたが、
晩年になって終南山麓に設けてある別荘に籠ることにした。
興趣が湧いてくるとよく独りで出かけていき、
素晴らしい風光に自然に溶け込んでいく。
水の湧き出る処まで上っていき、
座って雲が起こってくるのに見入るのである。
時には偶然にお年寄りの木こりに逢うことがあり、
つい話し込んで帰る時を忘れてしまうのだ。
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