時節柄、「一杯一杯 復(マ)た一杯」で知られる李白の詩《山中幽人と对酌す》に“韻”を借り(次韻し)た詩を試みました。春・花・一杯(宴)……、と想いを巡らしている内に、『願わくは 花の下にて 春死なん……』と詠った西行法師(1118~1190)に思い至った次第。ともに“気の向くまま”の生涯を送っています。
西行は、その願い通りに『その如月(キサラギ)の 望月のころ』、陰暦2月16日、釈尊涅槃(ネハン)の日に入寂した と。しかしすでに亡くなったとは言え、筆者の脳髄の中には生きていて、歌を読むごとに蘇ってきます。「花の下で休んでいて、佳い夢を見ているのだ と」。
コロナ下、満開の花の下で、“ワアワアの騒ぎ”はなく、小人数のグループがチラホラと、盃を交わしながら会話を楽しんでいる、却って風情の有る、良い情景と見ました。
xxxxxxxxxxxxxx
<漢詩と読み下し文>
次韻 李白《山中與幽人対酌》 李白《山中幽人と対酌す》に次韻
西行南柯夢 西行(サイギョウ) 南柯(ナンカ)の夢 [上平声十灰韻]
碧空傍晚花盛開, 碧空 傍晚(ボウバン) 花 盛開(セイカイ),
花下少団相敬杯。 花の下 宴会の団(クミ)少なく 相(タガイ)に杯を敬(スス)める。
西行応做南柯夢, 西行(サイギョウ) 応(マサ)に南柯(ナンカ)の夢 做(ミ)ているべし,
望月山端亦上来。 望月 山端(ヤマノハ)に亦(マ)た上って来よう。
註] 〇傍晚:夕暮れ; 〇盛開:満開である; 〇少団:幾組かの少数グループ;
〇西行:西行法師、平安後期の歌人、僧; 〇应:推量を表す、たぶん…であろう;
〇南柯夢:唐の淳于棼(ジュンウフン)は酒に酔って邸内の槐(エンジュ)の木の下で眠り、
槐安国(カイアンコク)に招かれて国王の娘と結ばれた。南郡の郡主に任じられて栄華を
極めた20年を過ごす夢を見た という故事。唐・李公佐『南柯太守伝』に拠る。
<現代語訳>
西行法師 南柯の夢
初春如月の頃、澄み渡る青空の下、夕暮れ時、桜の花は満開、
花の下でちらほら幾組かのグループが杯を交わしている。
西行法師は、きっと花の下で休み、悦楽の夢を見ているに違いない、
満円い望月が、東の山の端にまた上って来るころ。
<簡体字およびピンイン>
次韵 李白《山中与幽人对酌》 Cìyùn LǐBái 《shānzhōng yǔ yōu rén duì zhuó》
西行南柯梦 Xīxíng nán kē mèng
碧空傍晚花盛开, Bìkōng bàngwǎn huā shèng kāi,
花下少团相敬杯。 huā xià shiǎo tuán xiāng jìng bēi.
西行应做南柯梦, Xīxíng yīng zuò nán kē mèng,
望月山端亦上来。 wàng yuè shān duān yì shàng lái.
xxxxxxxxxxxxxxx
<李白の詩>
山中與幽人対酌 山中 幽人と対酌す [上平声十灰韻]
両人対酌山花開、 両人(リョウニン)対酌(タイシャク)すれば 山花(サンカ)開く、
一杯一杯復一杯。 一杯一杯 復(マ)た一杯。
我酔欲眠卿且去、 我酔うて眠らんと欲す 卿(キミ)且(シバラ)く去れ、
明朝有意抱琴来。 明朝 意(イ)有らば 琴を抱(イダ)いて来(キ)たれ。
註] 〇幽人:隠者; 〇対酌:向き合って酒を酌み交わす; 〇卿:きみ。二人称、
同輩や目下の者に使う。“XX卿”と、爵位を持つ人の氏名につけるとき尊称を表す。
<現代語訳>
二人で酒を酌み交わすかたわらに、山の花が咲いている、
一杯、一杯、さらにまた一杯。
私は酔って眠くなった、君は、一先ず帰ってくれ、
明日の朝もまた、よかったら、琴をかかえておいでよ。
[白雪梅 『詩境悠遊』に拠る]
<簡体字およびピンイン>
山中与幽人対酌、 Shān zhōng yǔ yōu rén duì zhuó,
両人対酌山花开、 Liǎng rén duì zhuó shān huā kāi,
一杯一杯复一杯。 yī bēi yī bēi fù yī bēi.
我醉欲眠卿且去、 Wǒ zuì yù mián qīng qiě qù,
明朝有意抱琴来。 míng zhāo yǒu yì bào qín lái.
ooooooooooooo
李白は、美しく花の咲く山中で、隠者とお酒を飲みながら、気ままに語らい、自由を謳歌しています。“君は、お帰りなさい”と、いかにも無遠慮に言い放つのですが、心底には“今日は最高に楽しかったよ、だから明日もぜひ琴を持っておいでください。今日の酒宴の続きを愉しもう!”(白雪梅・『詩境悠遊』に拠る)。
“一杯一杯 復(マ)た一杯”と、存分に杯を重ねて語らう雰囲気がよく解説されており、『詩境悠遊』からその部分を拝借させてもらいました。なお、李白の生涯については、次回“句題和歌”シリーズ・「長恨歌」の稿で概観するつもりです。
西行法師(1118~1190)は、俗名・佐藤義清(ノリキヨ)。曽祖父の代より代々衛府に仕える武人の家で、義清は、18歳で左兵衛尉に任じられ、鳥羽院の下北面武士として奉仕した。23歳の若さで出家して “西行”と号した。出家の原因・理由は不明である。
出家後は京都・東山、嵯峨、鞍馬など諸所に草庵を営んでいる。32歳時、高野山に入り約30年間、そこを拠点にして吉野や大峰に入っている。63歳時、伊勢二見浦に移住、数年住まった後、河内国・現河内郡南町弘川(ヒロカワ)・弘川寺に庵居し、1190年この地で入寂したとされる。その間、都への往来、また奥州、四国など諸所を行脚している。
自由な境地で諸国を巡り和歌を作る、僧と作歌の二足の草鞋を履いた生涯で、約2,300首の和歌が遺されている と。特に花・月を詠った歌が多く、家集の『山家集』中、最も多く、また質的にも歌人・西行の特質を表す主題となっている と。
平安後期、院政期における新古今調の新風形成に、後鳥羽院、崇徳院、藤原俊成、藤原定家らと中心的な役割を果たしたと評されている。但し当時、都の歌壇で屡々催された歌合(ウタアワセ)に参加することはなく、距離を置いていたようでは ある。
1187年、自作の歌を集め、左右に分けて争わせる自歌合『御裳裾(ミモスソ)歌合』(72首、36番)および『宮河(ミヤガワ)歌合』(74首、37番)を作り、それぞれ、藤原俊成および定家に判詞を書いてもらい、伊勢神宮の内宮(ナイクウ)および外宮(ゲクウ)に奉納している。
藤原定家が撰した『百人一首』には、次の歌が採られている(漢詩化:閑話休題114参照)。『千載集』での詞書(コトバガキ)には、「月前恋(ゲツゼンノコイ)といえる心をよめる」とあり、出家の一因 失恋かな?
(86番) 歎けとて 月やはものを 思はする
かこち顔なる わが涙かな (西行法師『千載集』恋5・929)
(大意) 歎くがよい と月が私に仕向けているのか、月のせいにしてまた新
たに涙をこぼす
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます