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進化ではなく循環

2006-08-09 00:52:06 | 本と雑誌

(マックス・ヴェーバー入門(山之内 靖))

 先にもご紹介しましたが、ヴェーバーは「カルヴィニズム」と「近代官僚制」との堅い連関を指摘しています。

(p90より引用) カルヴィニズム的信条は、一方で功利主義の哲学をもたらし、他方で近代的な意味での合理的な組織を生みだす。近代官僚制はカルヴィニズムに始まる意識改革を通して、はじめて合理的な効率性をもった組織として生まれてきた。組織論の上でも、被造物神化の拒否という命題はそういう意味をもった、とヴェーバーは言うのです。

 「官僚制」は対立階層の政治的自立性を抑圧していきます。そのメカニズムをヴェーバーは、ライトゥルギー(対国家奉仕義務)という概念を用いて立論しました。

(p196より引用) 現代社会もまた、ある種のライトゥルギー国家体制に移行しつつある。・・・ペルシャに対抗して質実剛健なポリス市民文化を守ったギリシャが、ヘレニズムのライトゥルギー体制へと収斂していったように、プロテスタント的禁欲の精神に燃えた西欧市民文化もまた、とどめがたい官僚制化とともに全面的秩序化とシステム化の軌道へと吸いこまれてゆこうとしている。西欧文化は、いな、人類は、古代帝国の国家社会主義と類似の体制にたどりつき、その安定してはいるが抑圧的なシステムの中で、死の静寂を迎えるのであろうか。

 ここにおいて、ライトゥルギー体制すなわち社会の官僚化による停滞・抑圧が、20世紀思想の中心問題として認識されます。
 歴史は、改善という一方向に「進化」しているのではなく、まさに歴史は繰り返すといわれるように「循環」していると考えられるのです。

 さらに、ヴェーバーは、この循環の中で、普遍的な合理化は、自己破壊に向かう運命的な力に向かっていることを指摘しています。

(p218より引用) キリスト教系譜の「現世内的禁欲」は、苦難の意味づけに始まりながら、結果としては意味の分裂ないし意味喪失の状態をもたらすことになりました。その意味で「現世内的禁欲」の方向は自己破壊的なエネルギーをその中に抱えこんでいたということ、これがヴェーバーが言おうとしたことなのです。

 ヴェーバーの合理化論は、決してヨーロッパ近代の可能性を賛美する方向を志向していなかったということです。

(p220より引用) ヴェーバーはキリスト教文化が内包する合理化の普遍性を一貫して強調したのです。そして、その普遍性にこそ恐るべき運命的な力が宿っていること、ここに警告を発していたのです。

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