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小林秀雄の「批評」 (人生の鍛錬-小林秀雄の言葉(新潮社編))

2007-08-11 17:07:28 | 本と雑誌

 小林秀雄氏は、日本の近代批評の創始者とも言われます。

 47歳の作「文化について」において、小林氏自らが語った「批評精神」についての言葉です。

(p132より引用) 与えられた対象を、批評精神は、先ず破壊する事から始める。よろしい、対象は消えた。しかし自分は何かの立場に立って対象を破壊したに過ぎなかったのではあるまいか、と批評して見給え。今度はその立場を破壊したくなるだろう。立場が消える。かようにして批評精神の赴くところ、消えないものはないと悟るだろう。最後には、諸君の最後の拠りどころ、諸君自身さえ、諸君の強い批評精神は消して了うでしょう。そういうところまで来て、批評の危険を経験するのです。自分にとって危険であると悟るのです。・・・しかし大多数の人が中途半端のところで安心している様に思われてなりません。批評は他人には危険かも知れないが、自分自身には少しも危険ではない、そういう批評を安心してやっている。だから批評の為の批評しか出来上らぬ。

 「批評」に対峙し自らを律する小林氏自身の厳しい覚悟が伝わってくる言葉です。

 小林氏の批評の対象は文芸に限ったものではありませんでした。
 音楽や美術等、幅広いジャンルに及びました。

 そういう遍歴を経て、まさに小林氏の「批評」についての神髄を表した言葉です。
 62歳の作「批評」から。

(p211より引用) 自分の仕事の具体例を顧ると、批評文としてよく書かれているものは、皆他人への讃辞であって、他人への悪口で文を成したものはない事に、はっきりと気附く。そこから率直に発言してみると、批評とは人をほめる特殊の技術だ、と言えそうだ。人をけなすのは批評家の持つ一技術ですらなく、批評精神に全く反する精神的態度である、と言えそうだ。

 さて、最後にご紹介するのは、小林氏56歳の作「国語という大河」から「悪文」についてのフレーズです。

(p179より引用) あるとき、娘が国語の試験問題を見せて、何だかちっともわからない文章だという。読んでみると、なるほど悪文である。こんなもの、意味がどうもこうもあるもんか、わかりませんと書いておけばいいのだ、と答えたら、娘は笑い出した。だって、この問題は、お父さんの本からとったんだって先生がおっしゃった、といった。

 まさに私も、高校・大学のころは小林氏の文章にはホトホト参った口です。
 とはいえ、そのころから30年ほど経って、また再び小林氏の文章に触れようとしているわけですから、ちょっと不思議です。どうやら、小林氏の文章は、私にとってはトラウマのように、何とか組みついていきたいという気持ちを抱かせる対象のようです。(そういう読み方は邪道だとは思いますが・・・)

 ちょうど手元に、学生時代に買った小林氏の文庫本「考えるヒント」があります。
 おおよそ30年ぶりに読みなおしてみることにしましょう。

人生の鍛錬―小林秀雄の言葉 人生の鍛錬―小林秀雄の言葉
価格:¥ 756(税込)
発売日:2007-04


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