ことの葉散歩道(6)
覚悟の死 (孤高の死?)
「年齢(とし)をとって、他人の邪魔になりたくなかったのでしょうか」、「あの人は他人に迷惑をかけてまで生きよう、という人ではありませんからね。トイレにも満足に行けず他人の世話になって生きるより、いさぎよく死を選ぶ人ですよ」 ※神々の夕映え 渡辺淳一著 講談社文庫 1994年第26刷刊より |
脳軟化症で倒れた彼は、右半身に麻痺を起し茶碗も満足に持てなかった。
トイレに行くときでも介助を断り、30分もかかって用を足していた。
さらに言葉が思うように喋れず、家族の者も判別に苦しむほどだった。
その彼が、死ぬ半月ぐらい前から、一切の食べ物も取らずお腹が一杯だと言って断り、
最後は水も飲まず痩せこけて死んだ。餓死である。
他者の手を借りなければ生きていけない境遇に陥り、
かつては小学校の校長をしていた彼には、「生きること」が、屈辱に感じられたのだろうか。
妻に先立たれその後退職して、娘の嫁ぎ先を頼ってこの街に来た。
娘夫婦と孫のいる家での生活は、特に不満があるわけではないが、
狭い家にいるのは何かと気がねだったから、
日がな一日の長い時間のほとんどを碁会所で過ごすことになる。
こんな境遇が、彼から生きる力を徐々に奪っていったのかもしれない。
物語が描かれた1978年ごろには、ショートスティやディサービスが法制化されたのだが、
彼はこちらの「生きる道」を選択しなかった。
老いるということは、喪失の過程を徐々に拡大することだ。
友人、知人を失い、親や兄弟たちを失い、伴侶を失い孤独の波がひたひたと忍び寄ってくる。
やがて、身体的機能も衰え、誰かのお世話を受け入れなければ生きていけない時が訪れる。
人としての尊厳を失わずに、その人らしく人生の最後の幕を引くためには、
その人を取り巻く人々の温かいまなざしが必要であり、
それを自然体で受け入れる素直な心が必要かと思われる。
そして一番必要なのは、生きる希望を失わない自立する心を持つことだ。
(2015.4.7記)