雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

覚悟の死(孤高の死?)

2015-04-08 11:30:00 | ことの葉散歩道

ことの葉散歩道(6)

    覚悟の死 (孤高の死?)

 

「年齢(とし)をとって、他人の邪魔になりたくなかったのでしょうか」、「あの人は他人に迷惑をかけてまで生きよう、という人ではありませんからね。トイレにも満足に行けず他人の世話になって生きるより、いさぎよく死を選ぶ人ですよ」

 ※神々の夕映え 渡辺淳一著 講談社文庫 1994年第26刷刊より

 脳軟化症で倒れた彼は、右半身に麻痺を起し茶碗も満足に持てなかった。

トイレに行くときでも介助を断り、30分もかかって用を足していた。

さらに言葉が思うように喋れず、家族の者も判別に苦しむほどだった。

その彼が、死ぬ半月ぐらい前から、一切の食べ物も取らずお腹が一杯だと言って断り、

最後は水も飲まず痩せこけて死んだ。餓死である。

 

 他者の手を借りなければ生きていけない境遇に陥り、

かつては小学校の校長をしていた彼には、「生きること」が、屈辱に感じられたのだろうか。

妻に先立たれその後退職して、娘の嫁ぎ先を頼ってこの街に来た。

娘夫婦と孫のいる家での生活は、特に不満があるわけではないが、

狭い家にいるのは何かと気がねだったから、

日がな一日の長い時間のほとんどを碁会所で過ごすことになる。

 

 こんな境遇が、彼から生きる力を徐々に奪っていったのかもしれない。

物語が描かれた1978年ごろには、ショートスティやディサービスが法制化されたのだが、

彼はこちらの「生きる道」を選択しなかった。

 

 老いるということは、喪失の過程を徐々に拡大することだ。

友人、知人を失い、親や兄弟たちを失い、伴侶を失い孤独の波がひたひたと忍び寄ってくる。

やがて、身体的機能も衰え、誰かのお世話を受け入れなければ生きていけない時が訪れる。

 

 人としての尊厳を失わずに、その人らしく人生の最後の幕を引くためには、

その人を取り巻く人々の温かいまなざしが必要であり、

それを自然体で受け入れる素直な心が必要かと思われる。

 

そして一番必要なのは、生きる希望を失わない自立する心を持つことだ。              

                                 (2015.4.7記)

   

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