雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

人生の最期

2017-10-30 18:00:00 | つれづれ日記

 人生の最期
      
      この文章は2010.07.13に発表したものですが、

      亜母のブログ(ぽんのんの2)さんに送ります。
      母の死を見つめながら、私は「人生の最期」を
      以下のように迎えられたらいいなと思い、
      7年前に記した文章です。

      終末期においては、「ありがとう」の一言だけでも
      最期のメッセージとして残したい思いは、私だけでなく
      多くの人の望むことなのでしょうね。  


   母は90歳で他界しました。その時、私には母を失った喪失感はあまりなく、
 むしろ、私が3歳の時に他界した父のもとに
 やっと、母はみまかうことができたのだと、
 そして、その父のいる彼岸のもとへ送ることができたのだという
 安堵感が私にはありました。

 葬儀の日は
 なぜか「ほっとする」ような安堵感にとらわれ、
 母を送ることができました。

 老化が進み、病と闘う母の姿は
 いじらしく、いとおしく感じられ
 日に日に幼女に還っていく母の手を握り締めながら
 「おふくろ、今まで十分頑張ってきたのだから、もう頑張らなくてもいいよ。
  親爺がそこまで迎えに来ているから、早く行ってやれよ」

 これが、母に対する私の精一杯の愛情の示し方だったと、今でも思っています。
 当時、上記のような私の言葉に、兄姉は「何ということを言うのだ」
 と随分と叱られたものです。

 いつまでも、たとえ一分、一秒でも長生きしてほしい。
 子どもとしては、当然の感情だと思います。
 しかし、私はそうした願いの中に「生きている者のエゴ」を感じるのです。

 臥している者にとって、「生を全うするだけのエネルギー」が残っているのかどうか。
 命のともしびが、今まさに消えようとするときに、
 「お母さん、頑張って、しっかりしなきゃだめよ」とは、私は言えないのです。

 むしろ、死の不安や恐怖をいかにして、軽くできるかという精神的なサポート
 こそが必要なのではないでしょうか。

 こういう視点に立って、ターミナルケアの考え方が存在するのではないかと思います。

 人生の最期のひと時を、病院のベットの上で、最新の医療機器に囲まれ、
 愛する人や親しい人に「ありがとう」の一言もいい残せないで、
 命の終焉を迎えるなんて、私は絶対に認められない。

 私ばかりでなく、たくさんの人たちが
 わが身の「人生の終末」を
 「ありがとう」の一言を最期の言葉として、迎えたいと考えていることと思います。

 遺される者の「エゴ」も改めなければならないことですが、
 医療行為もまた、物理的な「延命措置」だけの「終末治療」は改善しなければ、
 「命の重さ」と「医の倫理」がバランスよく保たれた「豊かな人生の終わり」は
 実現しないと思います。
 

 
 
 

コメント (4)
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