雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

追悼・船村徹(6) 高野公男との「男の友情」

2017-03-02 17:23:47 | つれづれに……

追悼・船村徹(6) 高野公男との「男の友情」
    
     「男の友情」についてはこのシリーズ(3)(4)で紹介しました。
        興味のある方はご覧ください。
        今回はゆかりの地を訪れ、歌碑や顕彰碑を紹介します。

  高野公男のふる里の最寄りの駅は
  上野駅から東北線に乗り途中乗り換えて、水戸線羽黒駅まで約2時間。
  現在業務委託駅になっており、利用者が1日平均620人の小さな駅である。
(現在の羽黒駅前広場) 左正面の建屋が駅舎 右側端の小さな瓦屋根は駅トイレで、ここに「男の友情」の歌碑と「友情の譜」の顕彰碑がある。『男の友情・友情無限』

 裏面に「友情の譜」の顕彰碑がある。
 
友情の譜
 二十六歳、あまりにも短い人生を閉じた
 薄幸の天才詩人高野公男、作曲家船村徹は
 喜びも悲しみもともに分かち合う一心同体、ま
 さに二人三脚そのものでありました。
 高野公男の名は吉郎。昭和五年北山内村
 (笠間市)大郷戸生まれ。昭和十九年北山内
 国民学校卒業。昭和二十四年東洋音楽学校
 (現東京音大)入学。
 同じころ栃木県出身船村徹との運命的な出
 合いが始まりました。同じ田舎っぺ同志が意気
 投合し、無名の青年作詞家と作曲家が、苦節
 の中から、コンビの作品をつぎつぎに発表し
 名曲「別れの一本杉」が昭和三十一年大ヒ
 ットしました。そのころ高野公男は、病重く
 青春の夢もはかなく、今まさに、命絶えんとす
 る病床に、望み得ることなく羽黒駅の片隅で
 船村徹と手を取り合い、泣いて別れた過ぎし
 日を思って、綴った絶筆「男の友情」が残さ
 れました。
 ここゆかりの地羽黒駅前広庭に建てた、
 友情の歌碑が、広く青少年の心のかてになれば
 幸いに思います。

   平成十五年四月二十九日
   歌碑「男の友情」建設委員会
    施工(有)秋葉石材店


 「男の友情」    作詞 高野公男  作曲 船村徹

(1) 
昨夜(ゆんべ)も君の 夢見たよ
   なんの変わりも ないだろね
   
 東京恋しや いけぬ身は
      
背のびして見る 遠い空
      
段々畑の ぐみの実も 
      
あの日のままに うるんだぜ

 

(2)  流れる雲は ちぎれても
      
いつも変わらぬ 友情に
      
東京恋しや 逢いたくて
      
風に切れぎれ 友の名を
      
淋しく呼んだら 泣けてきた 
      
黄昏赤い 丘の径(みち)

 

(3)  田舎の駅で 君の手を 
      
ぐっとにぎった あの温(ぬく)
      
東京恋しや 今だって
      
男同志の 誓いなら
      
忘れるものかよ この胸に 
      
抱きしめながら いる俺さ

  「男の友情」は船村徹やその弟子北島三郎、鳥羽一郎、他にちあきみのる、美空ひばりなどが歌っていますが
 私は歌手・船村徹のギターの弾き語りとちあきなおみの歌が好きです。

 羽黒駅は小さな駅です。この駅から高野公男の故郷は4キロぐらいでしょうか。タクシーなどなく、
 二人は山峡の鄙びた大郷戸まで歩いたのでしょう。
 療養中の高野にとって、この道は体に応える道のりだったことでしょう。
 駅までの送りを辞退する船村の好意を振り切り、
 駅に送って来る高野の気持ちを絶筆「男の友情」にしたためたのでしょう。

 これが最後の別れになるかもしれない。
 そういう思いを、三番の歌詞に託したのでしょう。
 握った手のぬくもりを、高野はこれが最後になるかもしれないと思う。

 切なくて、辛い思いが伝わってきます。
                           (つづく)

   (2017.03.02記)

 

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