太宰治 情死行 ④ 入水情死行 無頼派作家太宰治の死
6月13日深夜から未明にかけて、太宰と富栄は行方をくらました。
富栄の部屋には、線香の香りが漂い、
部屋にはそれぞれが書いた遺書が残されていた。
しかし、遺体はなかなか発見されず、報道が新聞各社を賑わすようになったのは、
16日朝刊からだった。
梅雨時の雨で、玉川上水は水かさを増し、濁流が渦をまいていた。
このことも、遺体発見を遅くさせる要因になったのだろう。
(周囲を雑草に覆われた上水を、蓑を着た人たちが長い竹竿をもって捜索をおこなっている)
生前、太宰はエッセイの中で次のように書いている。
私は殆んど他人には満足に口もきけないほどの弱い性格で、従って生活力も零に近いと自覚して、
幼少より今迄すごして来ました。ですから私はむしろ厭世主義といってもいいやうなもので、
餘り生きることに張合ひを感じない。ただもう一刻も早くこの生活の恐怖から逃げ出したい。
この世の中からおさらばしたいといふやうなことばかり、子供の頃から考えている質でした。
(「わが半生を語る」より引用)
このエッセイは昭和22(1947)年11月頃に書かれたもので、
この時期は、「人間失格」の執筆がはじまる約5カ月前に書かれたもので、
およそ8カ月後には太宰は富栄と共に不帰の旅路に立つことになる。
太宰の死への願望(と言っていいのかどうか私には解らないが)は、
太宰の初期短編小説「葉」にも表現されている。
死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。
着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着
物であろう。夏まで生きていようと思った。
(「葉」冒頭より引用)
初期短編・第一創作集(昭和11年6月刊行)『晩年』の最初に収録されているのが「葉」である。
創作の中の一文であるが、「正月にもらった反物が麻地だったから、着物に仕立てて夏に着る
ように夏まで生きていよう」。
〈生きていくための理由がなんと単純な理由なのだろう〉と私は思った。
太宰のように破天荒な無頼派作家を名乗る者にとって、「死」はいつでも身近にあり、
死のうと思えば、生と死の境目にある壁を簡単に乗り越え、
この世に未練を残さず逝ってしまう。
生きることへの苦悩や辛さや切なさを背負い、
これらと戦いポジティブに生きようとしないで、
簡単に死を選んでしまう。
いただいた麻の反物を眺めながら、
「夏までは生きてみよう」と簡単に「死の時期」を伸ばしてしまう。
太宰の言動から推測すれば、富栄と出会うずっと以前から「死への願望」を持っていたようだ。
度重なる女性遍歴と心中未遂。
薬物依存、夜ごとの飲酒、結核による吐血で極度に衰弱していく生活環境とは別に、
この時期、太宰の小説家としての名声は高まっていく。
昭和22(1947)年 没落する旧家の悲劇を主題にした「斜陽」を発表。ベストセラーになり、
作家としての地位を確固なものにし、放送、映画、
舞台などに作品が登場するようになる。
この頃から太宰は不眠症と肺結核で極度に健康をそこなっていく。
太宰の妻・島津美知子『回想の太宰治』によれば、
「被害妄想が昂じて、むやみに人を怖れたり、住所をくらましたりする日常」
が始まっていく。
一方、太宰を巡る女性関係ももつれた糸のように、整理のつかない関係になっていく。
1月 太田静子の訪問を受ける。
2月 神奈川県下曽我に太田静子を訪ね、5日間滞在。
3月 山崎富栄と識り合う。
7月 小料理屋「千草」の二階に仕事部屋を移す。
8月 病状悪化自宅にひきこもる。
9月 この頃より仕事部屋を富栄の部屋に移す。
11月 太田静子に女児誕生、「治子」と命名。
富栄の部屋でしたためられた認知證。11月12日 静子の代理人(弟)に乞われ「治子」と命名する。
(新潮日本文学アルバム・太宰治より)
昭和23(1948)年
1月 喀血。以後、身体極度に衰弱し、しばしば喀血。
6月 13日夜半、山崎富栄と入水。
(つづく)
(つれづれに……心もよう№119) (2021.8.14記)
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